専念寺。横浜市戸塚区深谷町にある浄土宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

深谷山専念寺。鎌倉権五郎景正の守り本尊を奉安して創建、深谷目薬師

専念寺の概要

浄土宗寺院の専念寺は、深谷山青楊院と号します。専念寺は、奥州後三年の役(1083-1089)で活躍した鎌倉権五郎景正(景政)が、自身祈願所として守り本尊薬師如来像を安置し創建、文治年間(1185-1189)に景正(景政)の末裔にあたる梶原平三景時が再建して福泉寺と号したといいます。その後衰廃したものの、永禄年間(1558-1570)僧長順が再興、僧長順は岩瀬大長寺鎮蓮社感誉存貞に謁見した際、真言宗から浄土宗に改めた上で、院号寺号を一心院専念寺と改め、さらに鎮蓮社感誉存貞を中興開山とし、自身は中興二世としたといいます。
当寺の本尊薬師如来像は、鎌倉権五郎景正の守り本尊で、眼を負傷した際に願をかけ、寺の前の清流で目を洗ったところ、たちまちにして目の傷が癒えたと言われ、深谷目薬師と呼ぶそうです。

専念寺
専念寺の概要
山号 深谷山
院号 青楊院
寺号 専念寺
本尊 薬師瑠璃光如来像
住所 横浜市戸塚区深谷町1021
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



専念寺の縁起

専念寺は、奥州後三年の役(1083-1089)で活躍した鎌倉権五郎景正(景政)が、自身祈願所として守り本尊薬師如来像を安置し創建、文治年間(1185-1189)に景正(景政)の末裔にあたる梶原平三景時が再建して福泉寺と号したといいます。その後衰廃したものの、永禄年間(1558-1570)僧長順が再興、僧長順は岩瀬大長寺鎮蓮社感誉存貞に謁見した際、真言宗から浄土宗に改めた上で、院号寺号を一心院専念寺と改め、さらに鎮蓮社感誉存貞を中興開山とし、自身は中興二世としたといいます。8世専治の代には、松平攝津守義行の室吉子(毛利大膳大夫綱廣の息女、法謚青楊院梅譽華屋)の侍女が、室吉子の菩提を弔わんがために剃髪、堂宇を再建し田園を寄附されたことから、院号を青楊院としたといいます。

新編相模国風土記稿による専念寺の縁起

(深谷村)
専念寺
深谷山青楊院と號す、浄土宗(岩瀬村大長寺末、)本尊薬師(長二尺六寸五分行基作)を安ず、當寺は其先鎌倉権五郎景政祈願所として起立し、己が守護佛を安ぜり(今の本尊是なり)文治中其裔たるをもて梶原平三景時再建して一寺とし、福泉寺と號す、當時眞言宗たり、後年を逐て頽廢せしが永禄中僧長順務て又再興せり、此頃順岩瀬大長寺住職存貞(感譽と號す、天正三年五月十八日寂す)に謁しけるが遂に其宗風に歸依し、同五年十月五日當寺を貞に附屬し兼住せしむ、是より今の宗派となり、一心院専念寺と改め稱し、大長寺の末に列す、其後八世専治の時松平攝津守義行の室吉子(毛利大膳大夫綱廣の息女、延寶元年十一月婚嫁、三年正月晦日歿す、法謚青楊院梅譽華屋、春榮と云ふ、)歿せし後其侍女剃髪して貞忍と稱するもの愛慕に堪へず、其追福を修せんが爲當寺に牌を収め、堂宇を再建し田園を寄附して偏に葬地に擬す、因て彼法名を採て今の院號に改めしとなり、(新編相模国風土記稿より)

「戸塚区郷土史」による専念寺の縁起

専念寺(深谷町一〇二一番地)浄土宗
深谷山青楊院と号し、もと岩瀬大長寺の末寺。初め鎌倉権五郎景政の祈願所として起立されたもので、本尊として守護仏薬師瑠璃光如来(伝行基作)を安置していたが、文治のころ景政の末裔にあたる梶原景時が堂宇を再建し、福泉寺を起立した。当時は真言宗として手広青蓮寺にぞくしていたが、一時衰微していたものを氷禄年中長順が中興した。しかるにそのころ、長順は岩瀬大長寺の鎮蓮社感誉存貞に謁し、その宗風に帰し弟子となり、修学ののち同五年十月五日存貞を招いて中興開山とし、自からは第二世となり、寺号も一心院専念寺と改めた。当寺ははじめ堂山にあったが、後ち寺地を現在地に定めて移転し、次いで八世専治の代に、松平摂津守義行の室治子(法名青揚院梅誉華室春栄)の死歿にあたり、その侍女は剃髪して貞忍と称し、愛慕のあまり、追福せんため、当寺に牌をおさめ、堂宇は再建し、田園を寄附して、偏に葬地に擬したので、その功に報ゆるため、吉子の法名をとり、院号を青楊院と改めたという。(「戸塚区郷土史」より)


「大正地区歴史散歩の会」掲示による専念寺の縁起

鎌倉権五郎景正と専念寺の深谷目薬師
前九年の役の鎮定功労者陸奥守源頼義の嫡男八幡太郎義家は陸奥守となり赴任したが、奥州の覇者清原武則家の家督争いにまきこまれ、まれに見る大乱となった。戦場は沼柵からさらに要害の地金沢柵に移るが義家軍の苦戦の報が都に届くと義家の弟新羅三郎義光(甲斐源氏武田祖)が京から来援、これに力を得た義家が総攻撃し非常な苦戦の末、寛治元年十一月(一〇八七)、金沢柵を陥落させ、家衡と武衡を討つことに成功し、後三年の役はようやく終幕となった。
この戦いに弱冠十六歳の鎌倉権五郎は金沢柵の戦いで敵の矢に左目を射抜かれると戦友三浦為次が駆け寄り、景正の顔に足を掛け、その矢を抜こうとするや景正は「武士の顔に足を掛けるとは」と怒り刀を抜いて切りかかったと言う。
凱旋後景正は守り本尊の深谷薬師に治療の願をかけ、寺の前の清流で目を洗ったところ、たちまちにして目の傷が癒えたと言われる。
深谷薬師は、霊験あらたかな目薬師如来として信仰厚く、今も十二年毎に開扉している。鎌倉時代に活躍した大庭、俣野、梶原一族も戦国大名上杉謙信も鎌倉権五郎景正の子孫である。(「大正地区歴史散歩の会」掲示より)

専念寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿