大長寺。鎌倉市岩瀬にある浄土宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

龜頭山大長寺。高僧感誉存貞創建

大長寺の概要

浄土宗寺院の大長寺は、龜鏡山護國院と号します。大長寺は、玉縄城主北條左衛門大夫綱成が開基となり、大道寺駿河守政繁の甥である鎮蓮社感誉存貞願故が天文17年(1548)に創建しました。感誉存貞は、小田原傳肇寺で剃髪、川越蓮聲寺平方馬蹄寺、小林寺、清戸長命寺高澤大蓮寺見立寺などを創建、増上寺第十世となった高僧です。二世秀蓮紅雲誉圓治、三世普光觀智國師とも増上寺の住持を務め、第四世星蓮社暁誉存阿凝信源榮は、徳川家康からの信頼も厚く、天正19年(1591)には寺領50石の御朱印状を受領しています。

大長寺
大長寺の概要
山号 龜鏡山
院号 護國院
寺号 大長寺
本尊 木像阿弥陀三尊立像
住所 鎌倉市岩瀬1464
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大長寺の縁起

大長寺は、玉縄城主北條左衛門大夫綱成が開基となり、大道寺駿河守政繁の甥である鎮蓮社感譽存貞願故が天文17年(1548)に創建しました。感譽存貞は、小田原傳肇寺で剃髪、川越蓮聲寺平方馬蹄寺、小林寺、清戸長命寺高澤大蓮寺見立寺などを創建、増上寺第十世となった高僧です。二世秀蓮紅雲譽圓治、三世普光觀智國師とも増上寺の住持を務め、第四世星蓮社暁譽存阿凝信源榮は、徳川家康からの信頼も厚く、天正19年(1591)には寺領50石の御朱印状を受領しています。

新編相模国風土記稿による大長寺の縁起

(岩瀬村)大長寺
龜鏡山護國院と號す、浄土宗京知恩院末、天文十七年五月の創建にして開山は存貞(注釈を読む)
開基は玉縄城主北條左衛門大夫綱成なり(注釈を読む)
永禄元年九月十日綱成の室卒しければ(法號大項院光譽耀雲と云ふ)寺域に葬り更に二十貫文の地を寄附す、綱成は天正十五年五月六日卒す(年七十三道感院哲翁圓龍と謚す)二世は圓治(秀蓮紅雲譽と號す、永禄九年増上寺に轉住す、)三世は普光觀智國師(貞蓮社源譽存應と號す、天正十二年亦増上寺に轉す)四世は源榮(星蓮社暁譽存阿凝信と號す、觀智國師の弟子)なり、榮住職たりし時天正十八年の小田原の役に北條左衛門大夫氏勝玉縄に籠城して降らず、當寺檀縁の由緒あるを以て東照宮の内命を蒙り大應寺(植木村龍寶是なり、)住僧良達と謀り、終に降恭をなさしむ(【北條五代記】等には、此事良達のみ扱しと見ゆ、)御打入の後此邊御放鷹の時兼て榮の才學を知り召れ(三州大樹寺登譽より聞え上、兼て謁し奉りしことありしとなり)屡當寺へ跬蹕あり、法儀を御聴聞あらせられ、舊に因て寺領をも寄賜ふ(舊領は、玉縄岡本邑なりしを、此時願上て門前にて替賜ひしと云ふ)天正十九年改めて寺領五十石の御判物を賜ふ(文禄元年三月の水帳を蔵す、所謂大半小の歩數なり、)寺號初は大頂と記せしを(所蔵雲版天文十七年の銘、及び天正小田原陣の制札に、大頂寺と記す、)御判物文面に今の文字に記す給しより改むと云(注釈を読む)
又或時俄に成せられしと聞て榮急ぎ門外に迎奉り、御放鷹にやと申上しを聞召れ御戯に南無阿彌陀佛鳥は取らざりと上意ありしかば榮取敢ず、有がたのうえうえかうで日の暮るゝと附申せしを興じさせ給ひ、扈從の人々に記憶すべきとの命ありしとなり、慶長十三年江戸營中にて浄蓮二宗論議の時榮本多上野介正純と共に奉行せられしと云(浄土日蓮宗論記にも、依上意以大長寺上人召高野山賴慶僧都云々と見ゆ、)貞宗院尼(寶台院殿の御實母)玉縄に隠栖の頃殊に榮を歸依せられしかば戒を授け遺言に任せ導師を勤む、慶長十六年尼の爲に貞宗寺建立の時榮を開山に命ぜられ、當寺より兼帶す、同年十一月東照宮藤澤御殿に御止宿の時、榮を召させられ法義御談話あり、且諸堂修理のため銀若干を賜ふ(注釈を読む)
又江城或は駿府等へも屡召され、修學料三百石を賜ふ(【洞漲集】にも此事を載す、)故に榮を中興と稱す、同十九年三州大樹寺に轉住せり(源榮當寺住職中、江戸淺草正覺寺を中興し、當國高座郡座間宿、宗仲寺の開山となり兼住す、元和二年四月六日大樹寺より駿府に召され、御遺命を蒙り、同四年、病に依て宗仲寺退隠し、寛永十年十一月十日、同寺にて寂す、年八十三、)
本尊三尊彌陀(彌陀は長二尺三寸、運慶作)及如意輪觀音(定朝作長一尺)を置又大頂院の木像(長一尺□五寸五分)東照宮の御神影(大猷院殿の御筆、増上寺十七世照譽奉納す、裏書に、奉納大長寺、東照宮大權現御影、右家光公の御筆也、増上寺照譽華押あり)道幹君の御牌(東照宮の仰により、安置し奉れりと云、碑面昔は、瑞雲院殿應政道幹大居士淑靈とありしを東照宮二百回御忌に、御代々の尊牌御厨子等、修復を加へ奉りし時、御贈官に改、大樹寺殿贈亞相應政道幹大居士と記せり、)御代々の尊牌、及傳通院殿・崇源院殿。寶臺院殿の御牌、貞宗院尼・雲光院尼等の牌を安ず、寛永十年増上寺照譽(十七世)御供養金(東照宮、台徳院殿、大樹寺殿、御供養料三十兩)及び三祖(感譽、雲譽、觀智國師を云、三代相繼て、増上寺に轉ず)の供養金(三十兩)を寄附す(後年に至ても退轉なかるべきの文書あり)佛殿に大長壽寺の額を掲ぐ(寶永七年、知恩院尊統法親王、江戸の旅館にて書す)方丈は大頂院及北條氏繁室(七曲殿と號す)の殿宇を移し建しものと云、
【寺寶】
四季詠歌短冊四枚
詩箋一枚
一枚起請一幅
短冊一枚
山越彌陀三尊畫像一幅
涅槃像一軸
佛舎利七粒
九條袈裟一領
俱利伽羅龍墨畫一軸
説相箱一箇
銅雲板一面
鎗二筋
轡一口
鐙一掛
鎗一筋
制札一通
△三社権現社
中央に東照宮(御座像三寸九分、源榮作、御臺座の裏に、爲報答神君之洪恩、彌陀名號一唱一刀、謹彫刻神影二軀而奉安之大長寺、宗仲寺、以永祝禱天下太平矣、元和六年庚申四月十一日功畢、源榮と彫す)右に熊野、左に金毘羅を安置して鎮守とす、
△道祖神社、稲荷社(豊岡稲荷と號す)、社稷明神社
△鐘樓。文政三年現住存譽單定再鑄す、
△銀杏樹。本堂の前にあり(高十丈餘圍一丈三尺餘)東照宮御手植と云傳ふ、
△吉祥水。開山感譽當寺草創の時水に乏し加持して此水を得たり、今に至て久旱にも涸れずと云ふ、
△梅ノ井。是も名水なり、
△北條氏墓。五基あり、一は北條綱成の室(氏綱の女なり、牌に大頂院殿光譽耀雲大姉、永禄元稔戊午九月十日と刻す)一は北條新左衛門尉繁廣(表に泰清院殿惠雲常智大居士、慶長十七子天六月八日、裏に北條常陸介氏繁男、新左衛門尉重廣と彫す)一は北條氏繁の室と云(七曲殿と號す、五輪塔にて鐫字なし)一は水月妙清大姉と彫る(何広なるを傳へず、年月等も詳ならず、下同じ、)一は鐫字なし、
△支院
庭松院。實應建と云、應は寛永十六年九月十日寂す、本尊は彌陀座像長一尺三寸五分、宅間作、古は村内にありて、末寺たりしを後年境内に移す其舊地今に存す、
心蓮社蹟。正保元年、本坊六世、永感開基す、本尊彌陀は、長二尺一寸、惠心作、今假に本坊に置く。
△中門。四つ足門なり(右は二天門なりしを、承應二年正月回禄の後改造す、)護院の額を扁す(文政五年、智恩院尊超法親王の筆)
△總門。龜鏡蘭若の額をかく(増上寺隆善大僧正筆、)
△下馬札。總門外に建つ。初北條氏より建置しを大樹寺殿尊牌を安置の時改建られしと云ふ。
△制札。下馬札に相對して立、天正小田原陣の制札なり(新編相模国風土記稿より)


大長寺の周辺図