俣野観音堂。源平合戦で戦死した領主俣野五郎景久の守護仏観音像を祀った堂
俣野観音堂の概要
横浜市戸塚区俣野町にある観音堂は、と号します。俣野観音堂の創建年代等は不詳ながら、源平合戦に際して戦死した当地の領主俣野五郎景久の守護仏だった観音像を祀った堂ではないかといいます。新編武蔵風土記稿には、「十一面観音を置く(運慶作長一尺二寸)福泉寺持、)」と記載されています。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | 観音堂 |
住所 | 横浜市戸塚区俣野町1028 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
俣野観音堂の縁起
俣野観音堂の創建年代等は不詳ながら、源平合戦に際して戦死した当地の領主俣野五郎景久の守護仏だった観音像を祀った堂ではないかといいます。新編武蔵風土記稿には、「十一面観音を置く(運慶作長一尺二寸)福泉寺持、)」と記載されています。
新編相模国風土記稿による俣野観音堂の縁起
(上俣野村)観音堂
十一面観音を置く(運慶作長一尺二寸)福泉寺持、)(新編相模国風土記稿より)
境内掲示による俣野観音堂の縁起
俣野五郎景久と観音堂
治承四年八月二十三日(一一八〇)伊豆に配流中の源頼朝が平家政権打倒のため石橋山に挙兵すると平家側の総大将として是を襲ったのは藤沢の大庭景親であったが弟俣野五郎景久は家臣長尾兄弟(上杉謙信の祖)と源氏の先人佐奈田与一を討ち取り、頼朝軍は敗走辛うじて房総に逃れた。
頼朝が源家累代の家臣、千葉一族の協力を得て勢力を恢復し十月鎌倉に入府すると大庭景親を片瀬川畔で梟首し、五郎景久を遠く京都に敗走させて石橋山の報復を遂げた。
寿永二年五月、俣野景久は平宗盛軍の将として、頼朝の従弟木曽義仲の軍と加賀の篠原で対戦したが、平家の敗色濃厚で、武将の間から、いっそ源氏に鞍替えしてはとの話が出ると景久は強く反対し、「武士としていさぎよく討死」の覚悟を示し、守護仏の観音像を家臣に託して母の待つ故郷、相模国俣野村に送って自らは壮烈な最期をとげた。
いま篠原には景久の戦友で共に討死した斎藤実盛の墓はあるが、景久等の墓はない。
推うに実盛はまだ三歳だった義仲が殺されるのを救けた生命の大恩人であるが、是に反し景久は徹底した反源氏の将んるが故に、その墓の建立が憚られたものに相違ない。
景久に由緒のある観音堂は、茲、鎌倉街道西の道に接してはいるが、治承の昔からこの地に建立されていたかは定かではない。(大正地区歴史散歩の会掲示より)
俣野観音堂の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿