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清源院。横浜市戸塚区戸塚町にある浄土宗寺院

清源院の概要

浄土宗寺院の清源院は、南向山長林寺と号します。清源院は、かつて安達藤九郎盛長の一族長林某が創建した獅子王山林長寺があった当地に清源院尼が元和元年(1615)に開基、小石川伝通院三世白誉を開山に迎えて創建したといいます。

清源院
清源院の概要
山号 南向山
院号 清源院
寺号 長林寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 横浜市戸塚区戸塚町4907
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



清源院の縁起

清源院は、かつて安達藤九郎盛長の一族長林某が創建した獅子王山林長寺があった当地に清源院尼が元和元年(1615)に開基、小石川伝通院三世白誉を開山に迎えて創建したといいます。清源院尼は、俗名を於満といい、徳川家康の側室でしたが、仕えを辞して閑居していたものの危篤を聞いて駿府に駆けつけた際に阿弥陀如来像を拝領、家康死後に小石川伝通院白誉を戒師として出家、当地に清源院を創建したといいます。

新編相模国風土記稿による清源院の縁起

(戸塚宿)清源院
浄土宗京知恩院末、南向山長林寺と号す。寺地右は長林某安達藤九郎盛長が一族と云、が草創せし獅子王山林長寺といへる一寺なり。戦国の際廃絶せしを元和元年清源院尼其廃池に就て当院を開基す。相傳ふ、尼物は於満の方と称し東照宮に給仕して、徳籠を蒙る、年四十余にして、仕を辞しければ彦坂小刑部元正に預けられ当郡岡津村の陣屋に至り、其傍に草庵を営みて閑居せしが、元和二年春、御不例の由を聞、急ぎ駿城馳参りしかば殊に御感ありて、御看経佛二尊の内後白河法皇の勅願、安阿弥作の弥陀、一体を賜はれり。御他界の後、彼像を安置せんが為、一寺創建の志願有て、勝地を求め、遂に当寺地を得しかば、一宇を創建して、彼像を安じ、小石川伝通院の現住、白誉を戒師として、尼となり、清源院閑誉理宗と法号す。終焉の後遺言に任せ、遺骨は高野山に納め、当寺には牌を置く。開山は白誉小石川伝通院三世なり。本尊弥陀、長二尺二寸、即安阿弥の作にて、歯吹如来と称す。又行基作の千手観音長六寸を安ず。清浄院尼寄附七條の袈裟、葵御紋章を縫入れり、一項を寺宝とす、其余は、正保・天和両度の回禄に皆烏有せり。
鐘楼。鐘は安永三年の鋳造なり。(新編相模国風土記稿より)

「戸塚区郷土史」による清源院の縁起

南向山長林寺と号し、もと京都知恩院の末寺、本尊に阿弥陀如来を安置している。寺伝によれば建久年間源頼朝の旧臣安達藤九郎盛長の一族長林氏の建立した獅子王山長円寺が一時廃絶したのを、元和元年(一六一五)徳川家康の寵愛をうけた於万の方が四十余才で辞任したのち、彦坂小刑部元正にあづけられ、生家であった岡津陣屋の傍らで草庵を営んでいたとき、家康の御不例を聞き急ぎ駿府に参上、時に家康から後白河法皇勅願の歯吹阿弥陀如来をいただき、この仏像安置のため長円寺の旧地に建立したのが清源院の藍觴であると伝えている。時に小石川伝通院の白誉聞悦を請じて開山とし、於万の方が開基となり、寺基を開いたが、寺号は於万の方の法号清源院殿閑誉理宗尼公より取名したものであり、以来三葉葵の紋を用い、江戸期には寺前に下馬礼を立てていたという。寛永以来延享三年までのおよそ百二十年間に火災にあうこと数度。近くは明治十三年五月類焼の厄にあい、一時古材をもって仮本堂を建てたが、明治四十四年十一月観誉碩準の代に間口九間奥行八間の本堂を再建した。しかるに大正大震災にあい、またもや倒潰、昭和三年八月に至り和洋折衷式の本堂と庫裏を再建し今日におよんでいる。(「戸塚区郷土史」より)


清源院の周辺図