伝通院|徳川家康公の生母於大の方、関東十八檀林
伝通院の概要
浄土宗寺院の伝通院は、無量山寿経寺と号します。伝通院は、浄土宗中興の祖了誉聖冏上人が応永22年(1415)に小石川極楽水に創建、慶長8年(1603)徳川家康公の生母於大の方(法名傳通院殿)埋葬に際して寺を当地に移して再興、増上寺源誉上人が兼務したといいます。浄土宗関東十八檀林のひとつ、増上寺の次席で、830石の朱印状を拝領、徳川家の菩提所となり、数多くの末寺を擁していました。江戸三十三観音霊場12番、東京三十三観音霊場25番札所です。
山号 | 無量山 |
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院号 | 伝通院 |
寺号 | 寿経寺 |
住所 | 文京区小石川3-14-6 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
宗派 | 浄土宗 |
縁日 | - |
葬儀・墓地 | 伝通院繊月会館 |
備考 | 江戸三十三観音霊場12番、東京三十三観音霊場25番所、関東十八檀林、淑徳学園 |
伝通院の縁起
伝通院は、浄土宗中興の祖了誉聖冏上人が応永22年(1415)に小石川極楽水に創建、慶長8年(1603)徳川家康公の生母於大の方(法名傳通院殿)埋葬に際して寺を当地に移して再興、増上寺源誉上人が兼務したといいます。浄土宗関東十八檀林のひとつ、増上寺の次席で、830石の朱印状を拝領、徳川家の菩提所となり、数多くの末寺を擁していました。
「小石川区史」による伝通院の縁起
傳通院は表町に在り、無量山壽経寺と號す。浄土宗京都智恩院の末寺である。本尊は阿彌陀如来。
其起立は應永二十二年、開山は酉蓮社了譽聖冏聖人で、初めは單に壽経寺といひ、今の傳通院裏久堅町の極楽水(宗慶寺の地)に在つた。
徳川氏入國の後、慶長七年家康の生母水野氏(阿大方)逝去の砌、其遺言に依つて遺骸を今の地に葬り、慶長十四年までに新たに堂宇を建立して、元和九年には寺禄三百石(後六百石)を給せられ、爾来水野氏の法名に依つて傳通院と稱するに至つた。
以来将軍家の歸依甚だ篤く、寺領六百石を寄せられ、本堂、方丈、庫裡、開山堂、常念佛堂、大黒天、辨財天、八幡宮、多久蔵司稲荷社、鐘楼、経堂、學寮、總門、中門、裏門等堂塔伽藍百餘宇が並び立ち、福聚院、眞珠院、處静院、見樹院、法蔵院、縁受院、昌林院、慈眼院、瑞眞院、浄臺院、景久院等の別院塔中もあり、關東十八檀林の一として頗る盛観をきはめた。その概要は『江戸名所圖會』所載の傳通院圖を見ても略々知られる。明治以後徳川氏の指示を失ひ、四十一年には火災に罹つて昔時の盛観を失つたが、最近は境内を社會的に利用して、今も尚ほ區内屈指の名刹としての威容をなして居る。
寺内には開山了譽聖人以来歴代の墓を初め、徳川廣忠夫人(水野氏)、徳川千姫、徳川家光夫人の墓所、近くは幕末の名士清川八郎、澤宣嘉、杉浦重剛の墓等があり、變つた方面では情死で名高いお初磯五郎の墓等もある。(「小石川区史」より)
文京区史跡さんぽ報告書による伝通院の縁起
伝通院の寺名は「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」からきている。この法名は、徳川家康の生母於大の方である。於大の方は、三河国刈谷の城主水野忠邦の娘であった。14歳の時、岡崎の松平広忠と結婚して、家康を生んだ。しかし、実家の水野家が織田方についたので、駿河の今川氏と結んだ広忠とは離縁せざるを得なかった。
於大は広忠と3年の結婚生活を過ごしたのみで、生後1年半の家康を残して、松平家を去った。その後、於大は織田方の阿古屋城主久松俊勝の室となった。当時、松平家は今川氏と織田氏に挟まれ、苦しい立場におかれていた。その間、於大は時候の変わり目には、家康に手縫いの着物を届けたり、絶えず手紙で家康を励ました。桶狭間の戦いを契機に、家康は大転換をはたした。江戸に於大を迎え、手厚く、孝養した。
於大は京都見物中、病に伏し、その子久松定勝の居城伏見城で亡くなった。享年75歳であった。
於大の方の葬儀は知恩院で、満誉大僧正が執行しているが、その後、遺骸は江戸に運ばれ、増上寺に納められた。増上寺にとっては、於大の菩提を弔い、葬儀を行うことは、きわめて名誉なことである。しかし、増上寺の僧正が次のように強く家康に訴えた。「本山の開祖聖聴上人は、吉永山伝法院の開祖了誉聖冏上人の恩徳に深く帰依されていた。了誉上人は著述も五百巻に及び、神道、歌道の哲人であり、和漢孔老の学問にも造詣が深かった。上人は武蔵国豊島郡小石川の清泉のほとりに、小さな草庵を結び、そこで天寿をまっとうされた。今は、このような名徳の旧跡もあとかたもなく消え失せている。この機会に是非、了誉上人の遺跡を再興したいため、その地で葬儀を行いたい」と。
家康は大いに喜び、本多佐渡守等に命じ、新寺の建立にあたらせた。これが伝通院のおこりである。
於大の遺骸は大塚野(現文京区立第一中学校校庭)で、火葬にふされ、荼毘の煙は天空に美しくたなびいた。葬儀は今までにない大がかりなもので、未蓮華や開蓮華は金銀で造られ、日光月光の旗や高張提灯は万燈を飾るように立ちならんだ。六体の観音像は多彩な装飾がほどこされ、白幕に覆われ、参列の人々を驚かせた。数十名の僧侶による読経の中、百余人の会葬者が大塚野を埋めた。
法名は、「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」と命名された。
慶長14年(1609)墓所一帯は一面草の生えた荒地であったが、この地に、光岳寺と智香寺の2寺が供養のため建てられた。寺名は於大の方の法名からとったものである。
やがて伝通院は、徳川将軍家の菩提寺の性格をおびていった。寺域も広く、寺領も830石におよび、多くの堂宇や塔頭が建ち並ぶようになった。同時に関東の檀林となり、常時学僧が千人も及ぶ修行所となった。
墓所には、於大の方以外に、千姫、三代将軍家光の正室孝子など、徳川家にゆかりをもる女性や、将軍の三歳以下の子供たちが眠っている。(文京区史跡さんぽ実施報告書より)
伝通院所蔵の文化財
- 無量山境内大絵図及び小絵図(文京区指定文化財)
- 於大墓(文京区指定文化財)
- 千姫墓(文京区指定文化財)
- 孝子墓(文京区指定文化財)
伝通院の周辺図
参考資料
- 「小石川区史」
- 文京区史跡さんぽ実施報告書