大善寺。横浜市戸塚区上矢部町にある浄土宗寺院

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退魔山大善寺。、石川八右衛門重政開基、応蓮社讃誉牛秀開山

大善寺の概要

浄土宗寺院の大善寺は、退魔山不退院と号します。大善寺は、石川八右衛門重政(文禄2年歿、法名正林院本誉浄順)が開基、応蓮社讃誉牛秀(慶長10年寂)が開山となり創建、慶安2年に寺領10石の御朱印状を拝領、徳川家康鷹狩りの際には御膳所となっていたといいます。応蓮社讃誉牛秀は、滝山大善寺、平塚大善寺を開創した名僧です。

大善寺
大善寺の概要
山号 退魔山
院号 不退院
寺号 大善寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 横浜市戸塚区上矢部町106
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大善寺の縁起

大善寺は、石川八右衛門重政(文禄2年歿、法名正林院本誉浄順)が開基、応蓮社讃誉牛秀(慶長10年寂)が開山となり創建、慶安2年に寺領10石の御朱印状を拝領、徳川家康鷹狩りの際には御膳所となっていたといいます。応蓮社讃誉牛秀は、滝山大善寺、平塚大善寺を開創した名僧です。

新編相模国風土記稿による大善寺の縁起

(上矢部村)大善寺
退魔山不退院と號す、浄土宗京知恩院末、本尊弥陀は恵心作なり長三尺三寸。開山は牛秀、慶長十年六月十二日寂す。開基は石川八左衛門重政、文禄二年五月廿三日、當所陣屋在て死し、當寺に葬す。法名正林院本誉浄順と云ふ、寛永譜は歿年を慶長元年とし、法名を常順に作る、重政及び子孫の墳墓、域内にあり、なり。後才天、慶長十九年九月十五日寂す、中興すと云ふ。慶安二年八月寺領十石の御朱印を賜ふ。東照宮此邊御放鷹の時御膳所となりしと云ふ。今も門外に下馬札を建るは此故なりとぞ。
寺寳
打鉦一面。東照宮天正中、當所御放鷹の時、石川重政に賜ひしを、當寺に寄附せしなりと云ふ。
御茶碗一口。高麗焼なり、御膳所となりし時、東照宮御手澤の器と云ふ左に図す。此餘御紋章を押せる盃、茶碗等あれど、傳来の由詳ならず。
唐書文殊像一幅。
獅子香炉一口。
響銅楪、佐波利。以上三品は東照宮肥州名護屋御陣の時、石川八左衛門重政朝鮮國に得て帰りしを當寺に寄附せし物と云ふ。
鐘楼。万治元年鋳造の鐘を掛く。
観音堂。淡島社。(新編相模国風土記稿より)

「戸塚区郷土史」による大善寺の縁起

大善寺(上矢部町一〇六番地)浄土宗
退魔山不退院と号し、もと京都知恩院の末寺。開山は応蓮社讃誉牛秀(慶長十年六月十二日寂)。開基は石川八右衛門重政(文禄二年五月二十三日当所陣屋で死亡し、城内に墓所あり)で、江戸初期の建立。慶長二年八月寺領十石の朱印を賜わり、本尊に恵心作の阿弥陀如来坐像長三尺三寸を安置している。牛秀は生涯を通じ、平塚・八王子等を総じて三ヶの大善寺を建立し、俗に関東三大善寺といっている。また徳川家康が此の辺りに放鷹したとき、当寺を御膳所としたといわれ、近年まで門外に下馬札を建てていたという。(「戸塚区郷土史」より)

境内掲示による大善寺の縁起

退魔山不退院と号し、もと京都知恩院の末寺、開山は応蓮社讃誉牛秀(慶長十年六月十二日寂)開基は石川八右衛門重政(文禄二年五月二十三日当初陣屋で死亡し域内に墓地あり)で、江戸初期の建立。慶長二年八月寺領十石の朱印を賜わり、本尊に恵心作の阿弥陀如来像長三尺三寸を安置している。牛秀は生涯を通じ平塚八王子等を総じて三ヶの大善寺を建立し、俗に関東山大善寺といっている。また徳川家康が此の辺に放鷹したとき、当寺を御膳所としたといわれ、近年まで門外に下馬札を建てていた。又大善寺の裏山には淡島明神がまつ祀られており針の折れたのを豆腐にさして供え供養したと伝えられている。(境内掲示より)


大善寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿