大善寺|八王子市大谷町にある浄土宗寺院

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観池山大善寺|関東十八檀林、北条氏照が讃誉牛秀に帰依して開基

大善寺の概要

浄土宗寺院の大善寺は、観池山往生院と号します。大善寺は、北条氏照が、(立川能登守の子)讃誉牛秀(慶長10年1605年寂)に帰依して開基となり、永禄五年(一五六二)滝山城下に創建、北条氏照が八王子城へ移住した際にも共に移転したといいます。八王子城落城に伴い当寺も焼失、大横町へ移転、天正18年(1590)徳川家康から寺領10石の御朱印状を拝領したといいます。当寺の住職初世讃誉牛秀、二世秀誉含牛、三世然誉呑竜(源蓮社然誉大阿)ともに著名で、各地に浄土宗寺院を開山、浄土宗関東十八檀林の一に列していたといいます。昭和38年当地へ移転したといいます。八王子三十三観音霊場26番です。

大善寺
大善寺の概要
山号 観池山
院号 往生院
寺号 大善寺
住所 八王子市大谷町1019-1
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大善寺の縁起

大善寺は、北条氏照が、(立川能登守の子)讃誉牛秀(慶長10年1605年寂)に帰依して開基となり、永禄五年(一五六二)滝山城下に創建、北条氏照が八王子城へ移住した際にも共に移転したといいます。八王子城落城に伴い当寺も焼失、大横町へ移転、天正18年(1590)徳川家康から寺領10石の御朱印状を拝領したといいます。当寺の住職初世讃誉牛秀、二世秀誉含牛、三世然誉呑竜(源蓮社然誉大阿)ともに著名で、各地に浄土宗寺院を開山、浄土宗関東十八檀林の一に列していたといいます。昭和38年当地へ移転したといいます。

新編武蔵風土記稿による大善寺の縁起

(子安宿附瀧山)大善寺
八日市宿と八幡宿との間の路を大善寺横町と云、其道の北の方浅川の方へよりてあり、この寺八王子の城主北條氏代々歸依せり、故にもと郡中瀧山居城の時は、彼城下にありしを、後城地を今の元八王子慈根寺村へ移せし時、當寺もまたここへうつれり、故に今も御朱印寺領十石の地は、元八王子村の内峯ヶ谷戸と云所、もと寺域の邊にて賜はれり、かかる由緒を以て宿の地にありといへども、別に一區をなし、瀧山大善寺と稱せり、浄土宗、關東十八檀林の一にて、観池山往生院と號す、瀧山城主北條陸奥守氏照開基、檀那として僧讃譽をして起立せしむ、時に永禄年間の事なりと云、この讃譽は郡中立川の人、立川能登守の子なり慶長十年六月十二日寂す、或説に云、瀧山築城は永禄の初のことにて、氏照の移住せしは永禄五年なり、其後程なく當寺開闢せしなるべし、今も瀧山に當寺の舊跡あり、又此後瀧山城を今の元八王子へ移せしは、天正六年のことなり、是時當寺も極楽寺と同く彼城下慈根寺村に移しが、天正十八年六月落城の時、寺院兵火にかかり、境内亂妨にあひて、舊記等も皆失へり、故に事實の詳なることをつたへず、境内の圖上に出す。
惣門。横町通りにあり、東向なり、古はこの門福全院の前通りにありしが、寶暦の初にここへうつせりといへり。(図略)
鐘楼門。惣門より百間ほど内にあり、その間左右に杉の並木あり、この門は二間半に四間半の楼門なり、観池山の額をかけ、上に鐘をかけたり、其銘文左にのす。(銘文省略)
佛殿。十間半に十二間半、向拝唐破風作、三間に二間、栴檀林の三字を扁す。
客殿。三間に六間本尊彌陀を安す。
衆寮二ヶ所。一は四間に六間、一は四間に二間なり。
稲荷社。境内の鎮守なり、本社九尺に一丈、拝殿二間に三間。
観音堂。四間に三間半、正観音立像長三尺八寸、新田義重上野國寺尾城中守護の本尊なりしを、故有て當寺に安置すといへり。
裏門。冠木門なり、柱間七尺。
寺寶。
開山讃譽袈裟一。
開山讃譽衣 沓一。
彌陀畫像一幅。親鸞の筆なり。
金襴戸帳。御紋を織出したるものなり、浄岸院殿御寄附のものなりといふ。(新編武蔵風土記稿より)

「八王子市史」による大善寺の縁起

大善寺(瀧山―大横町五九―大和田町二、二二〇)
京都大本山智恩院末に属す。「八王子名物のお十夜」として昔からひろく人口に膾炙している浄土宗大善寺は、江戸時代「関東十八檀林」の随一の名刹であった。観池山往生院と号し、はじめ永禄五年(一五六二)北条氏照が滝山城に在住のころ、讃誉牛秀(? 一六〇五)に帰依して城下に一寺を創建したのが同寺のはじめであるとされている。これについては「新編武蔵風土記稿」の梅坪村の記載中、「旧跡大善寺跡」としてその所在は明確ではないが、北条氏照時代に建てられた跡だと土地で伝えているとある。
氏照の帰衣した開祖讃誉牛秀は助給と号し、甲斐の人である(一説には武蔵)。幼にして出家して増上寺に登って忍誉感応に師事し、後に南北の講席に歴学して諸宗を学修した。平生華厳・法華・起信・釈論などを精究したとのことである。後武蔵滝山に住して大いに教化につとめて大善寺を創立した。慶長一〇年(一六〇五)六月一二日寂、寿不詳、滝山に葬る。著作に「説社式要」一二巻がある(鎭流祖伝、浄士総系譜)。その後天正五年(一五七七)氏照が元八王子慈眼寺に城を移すに当って同寺も従ってこれに移った。「新篇武蔵風土記稿」の元八王子村の項に「大善寺極楽寺跡」の記載に八幡森の東なりとある。さらに天正一八年六月(一五九〇)八王子城が秀吉の軍に降るにおよんで同寺もまた兵火で焼失したので、寺基を大横町に移し、翌年戦役した亡魂得税のためにはじめて十夜会を修行したのが今日まで同寺の最大行事のお十夜の最初である。
天正一八年(一五九〇)一一月徳川家康から朱印一〇石を寄せられ、後檀林に列せられたのである。歴住は第一世讃誉牛秀についで秀誉含牛、そして第三代目が有名な然誉呑竜で、同寺には前後一四年間の永住で多くの事蹟を残している。この呑竜は同寺護念殿に自作像が安置して祀られており、明治時代まで毎月一〇日が「呑竜さま」とし、縁日の祭典が行なわれたものである。いわゆる「子そだての呑竜」として市民が子供の健康を祈願したものである。この呑竜は当代の傑僧として知られ、その師観智国師との関係もあって八王子領主大久保長安からの十分なる応援もえて、同寺の発展がみられたのである。
呑竜は武蔵国埼玉郡一割村の人、姓は井上氏、字は故信、源蓮社然誉大阿と号した。父は将監信貞、母が竜神に祈願をこめて霊夢を感じ、よってはらみ、弘治二年(一五五六)四月二五生れた。幼名を竜寿丸と称し、天資聡明、群童に超え、二、三才の時までに弥陀の名号を聞けばよろこんでこれを唱え、七、八才のころには泥砂で仏像を作り、絶えず念仏していたという。一三才で出家の志を抱き、一夜紫衣高僧の霊告を受け、翌年ついに同郡平方林西寺岌弁について剃髪し、曇竜と命名された。元亀元年(一五七〇)四月江戸増上寺に遊学、天正一二年(一五八四)観智国師が増上寺を董する際その業を受け、同年秋京都に上って綸旨を拝受、ついで林西寺の席をつぎ、住山一七年。ある年の夏、大旱があり、竜神の森に百万遍を興行して雨を祈ってたちまち効験があり、これから呑竜に帰向するもの多く、堂宇を更新して中興開山と称せられた。また各地からの請に広じて遊化し、相模の来迎寺および武蔵の長福寺を開き、慶長五年(一六〇〇)徳川家康の命によって八王子大善寺第三世となり、住すること一四年、化風大いに揚がり、今日呑竜堂(護念殿)がのこり、自作像がまつられているゆえんである。
天正一八年(一五九〇)家康がまた上野国太田に新田義重の旧地を興して大光院を創建するにあたり、招かれて同寺開山第一世となり、大衆四来して五、〇〇〇人にもおよんだという。時に一夜夢に悪竜を呑むとみて、名を呑竜と改めた。元和元年(一六一五)大坂城が陥ったとき彼は廊山・了的などと共に師観音国師について上洛、二条城中に宗義上の難易二道の本則を問論したという。翌元和二年(一六一六)武蔵郷士某の子が、孝志のために国禁を犯して鶴を猟し、追われて大光院に飛び込んだところ、彼はその志を哀れんでこれをひ護したために、幕府五老中連署の厳責を受けたので、夜陰ひそかにその子を伴って赤城山麓の三夜沢にかくれ、また諸方を歩きまわること五年、元和元年(一六二一)恩免を受けて帰院し、再び法燈をかかげ、同八年入洛参内して紫衣を賜わり、同九年(一六二三)病で入寂した。年六八。彼は天性仁慈に富み、救世利民の念ふかく、当時堕胎の風の盛んなのを悲しみ、貧窮者の嬰児を弟子として寺内で掬育し、その悪風を匡正したいと努め、また平生弥陀の名号を書いて諸人に与えて難産難病などを救い、もって念仏弘道に努力した。今日なお「子そだての呑竜」と称して民間の信奉がいまだに盛んである。
大善寺第六世船誉旧呑の代、寛永三年(一六二六)九月梵鐘を鋳造し、また仏間・茶間・勧学間などを建てた。同一三年(一六三六)一一月将軍家光が先判にまかせて朱印を附し、寛文四年(一六六四)将軍家綱はあらたに境内一五、〇〇〇坪を寄進、翌五年七月寺領を安堵した。同七年(一六六七)第十一世広誉詮雄は諸堂を再建して十夜法要の儀則を定めて中興の祖と仰がれた。延宝三年(一六七五)第一二世生誉霊玄は本尊阿弥陀仏を造立、また仏間を修復し、元禄一一年(一六九八)再び修理を加え、さらに宝暦四年(一七五四)楼門を造営、ついで文化年中(一八〇四~一八一八)には第三三世到誉察常が新居間を建て、またもと学寮の七宇あったのを南北の二宇だけを再興、嘉永五年(一八五三)白滝観音堂を建てた。慶応三年(一八六七)正月火災にあい、明治二年二月勅願所に列し、同一七年経蔵を造営、同二〇年三月本堂が再び災上し、同年同年護念殿(呑竜堂)を建立、翌二一年書院・庫裡を再造、大正一〇年大門を建て、昭和二年一〇月鐘楼堂を重建した。現在、山門・水屋・白滝観音堂・本堂・護念殿・鐘堂・庫裡・薬師堂・経蔵などがあり、毎年一〇月一三日から一五日まで十夜法要を修行し、遠近の信者が集まって、いわゆる「諷誦文」を依頼する一方、境内くまなく見世物小屋、飲食店などが軒を並ベてすこぶる雑とうをきわめるのであるが、最近年と共にそのにぎやかさを失い、時代の風潮であるが、「八王子名物」も流石に衰退の色著しく、遂に寺の大和田移転と共に消滅して今はない。
(中略)
昭和三八年一一月大和田町に移転した。 (「八王子市史」より)


大善寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「八王子市史」