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潮田神社|横浜市鶴見区潮田町の神社

潮田神社の概要

潮田神社は、横浜市鶴見区潮田町にある神社です。潮田神社の創建年代は不詳ですが、かつて杉山社と称し、延喜式神名帳に記載されている杉山社に比定される社とも、鎌倉時代(北条氏)の頃の創建とも推定されます。明治6年村社に列格、大正9年社号を杉山明神牛頭天王相殿から潮田神社へと改称したといいます。潮田神社境内からは古墳時代の貝塚が発掘されたほか、鶴見川橋付近にあった寺尾稲荷道道標が保存されています。

潮田神社
潮田神社の概要
社号 潮田神社
祭神 国常立尊、国常猛命、五十猛命、素盞嗚尊、豊雲野命、国狭槌命、豊受比売命、岐久理比売命、誉田別命、菅原道真公
相殿 -
境内社 神明社、稲荷社
住所 横浜市鶴見区潮田町3-131-1
祭日 例大祭6月5日
備考 -



潮田神社の由緒

潮田神社は、大正8年御嶽社と杉山社を合併、翌年潮田神社と改称したといいます。御嶽社は、景行天皇四十年日本武尊が東征の際、旧西潮田村海岸近くの古杉老松の森に小祠を建てて創祀したといい、明治6年には村社に列格、明治42年に井田方鎮座須賀社、小野新田鎮座稲荷社、向原鎮座の菅原社を本殿に合祀、井田方鎮座神明社を境内社として移転したといいます。杉山社は、明治42年に上居村鎮座若宮八幡社、浜端鎮座白山社、弁天下鎮座厳島社の三社を合祀していたといいます。

新編武蔵風土記稿による潮田神社の由緒

(潮田村)
三嶽社
村の西にあり、本社三間に二間南に向ふ、石の鳥居を社前にたつ、例祭年々九月九日、東漸寺の持なり。門前に僅なる石地蔵の堂あり。
杉山社
村の北よりにあり、社南向にて二間半に三間石の鳥居をたつ、此村の鎮守にして例祭毎年九月九日、これも東漸寺の持なり、向て右に稲荷の小祠をたつ
貴船社
西の方居村にあり、大聖寺の持
天神社
同寺(大聖寺)の西北にあり
稲荷社三ヶ所
共に大聖寺の持なり、一は字鐵念下にあり、一は字中のばと云所にあり、石にて作る祠なり、一は字北新田と云所にあり
神明社
字中のば下にあり、石の祠をたつ、元は鶴見川の橋にありしが、川の岸欠入し故近き頃此地へ移す。これも大聖寺の持
白山社
村の中央にあり、南に向へり東漸寺
若宮八幡社
村の東南にあり、社一間半に二間南に向ふ、向て左に稲荷の小祠をたつ、東漸寺の持
神明社
村の中央にあり、社南向にて大さ九尺四方これも東漸寺の持
第六天社
村の西鶴見川の端にあり、南向にて東漸寺持なり
稲荷社
これも東漸寺の持なり
辨天社
村内南の方にあり、社巽向にて大さ九尺四方向て右に稲荷の小祠を建、光永寺持(新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による潮田神社の由緒

口碑によれば、景行天皇四十年日本武尊、東征の砌相模より上総に航し給いし時従臣をして、旧西潮田村海岸近くの古杉老松の森に小祠を建て、豊斟渟尊、国狭槌尊を奉斎せるものと伝う。由来御嶽大権現と称して、武将の崇敬殊に厚く、正保年間(一六四四〜四七)に至り地頭松下孫十郎幕府の命により社殿を改築し、寛文十年幕府社領一段四畝二十歩を寄進したと云う。寛政元年の拝殿の棟札、延享元年の鳥居等により当時の模様を知る事が出来る。
明治三年社名を御嶽大神と改称し、同六年村社に列せられた。同四十二年八月、文化以前の古社である井田方鎮座須賀社(素盞嗚尊)、小野新田鎮座稲荷社(豊受神)、向原鎮座の菅原社(菅原道真公)を本殿に合祀し同年井田方鎮座神明社(天照大御神、弥都波能売神)を境内社として移転した。同四十二年八月、永禄以前の古社である東潮田村鎮座の村社杉山社(五十猛尊)、永仁六年以前の古社である上居村鎮座若宮八幡社(誉田別尊)、浜端鎮座白山社(菊理姫命)、弁天下鎮座厳島社(市杵嶋姫命)三社を合祀した。大正八年十一月村社杉山社を村社御嶽社に合併、本殿に合祀し、杉山社の境内の稲荷社を境内に移転す。大正九年一月潮田神社と改称、同年四月現在地に移転、同年十一月神饌幣帛料供進社に指定せられた。同十二年関東大震災により拝殿倒壊し、昭和五年再建された。同二十年戦災により社殿焼失、同二十八年六月復興した。(神奈川県神社誌より)

境内掲示による潮田神社の由緒

当社は、大正初期、京浜工業地帯の一代発展に伴い、耕地整理・区画整理による街造りのため、西潮田村の御嶽社と東潮田村の杉山社を合併し、大正九年、潮田神社と改称して潮田地区の中心地点である現在地に鎮座されました。社伝に依れば、景行天皇四十年、日本武尊が東夷征伐の航海の途中、旧西潮田村の古杉老松の鬱蒼たる地に小祠を建て、国土の神「国常立尊」、「豊雲野命」、「国狭槌命」を奉斎し、征途の無事安全を祈願したことが始まりと伝えられています。
中世に至り、潮田村は小田原北条氏の領地に属し、北条氏の信仰崇敬に殊に厚いものがありました。正親天皇の御世、永禄の頃太田道灌の曾孫太田新六郎康資の領地神社として、たびたび修復されたことが、東潮田村の杉山社に残る御神鏡からうかがうことができます。
また、正保年間に至り、地頭松下孫十郎が幕府の命により社殿を改築し、寛文十年、幕府社領一段四畝二十歩を寄進したことが御嶽大権現と称された西潮田村の御嶽社の棟札、鳥居等にのこされています。
由来、東のお宮、西のお宮と親しまれ、特に土地が海浜であったため、房総漁民船が大漁祈願に立ち寄るなど、潮田村及び遠近の村里沿岸一帯の鎮護となりました。(境内掲示より)


潮田神社の周辺図


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