光永寺。横浜市鶴見区汐入町にある曹洞宗寺院

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潮田山光永寺。潮田将監光興の三男純應大和尚創建

光永寺の概要

曹洞宗寺院の光永寺は、潮田山と号します。光永寺は、今川家の流れを汲む入野将監光興(後に潮田と改姓)の三男純應大和尚(文禄4年1595年寂)が当地に庵を天正4年(1576)に創建、潮田光興の嫡男中務光行の嫡子潮田左馬介光永(天正12年1584年卒)が寺閣を造立し、潮田山光永寺と号したといいます。

光永寺
光永寺の概要
山号 潮田山
院号 -
寺号 光永寺
住所 横浜市鶴見区汐入町2-43-3
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 光永寺檀信徒会館
備考 -



光永寺の縁起

光永寺は、今川家の流れを汲む入野将監光興(後に潮田と改姓)の三男純應大和尚(文禄4年1595年寂)が当地に庵を天正4年(1576)に創建、潮田光興の嫡男中務光行の嫡子潮田左馬介光永(天正12年1584年卒:法名花岳了臺祭大禪定門)が寺閣を造立し、潮田山光永寺と号したといいます。

新編武蔵風土記稿による光永寺の縁起

(潮田村)光永寺
字下辻にあり、禅宗曹洞派同郡下末吉村寳泉寺末、潮田山と號す、本尊釈迦坐像にして三寸許、開山は純應と云、此人俗姓は今川氏の末流にして入野将監光興と云人の三男なり、初入野三郎助某と云、父光興の命に依て歳わづか十一歳の時、能登國總持寺(現大本山總持寺)に於て出家し、その後當國へ来り、天正四年四月此所に庵を結び、文禄四年九月十日寂す、光興の嫡男中務光行の嫡子を潮田左馬介光永と云、光興初は入野と名乗しが、後に潮田に改しといへり、これは當所にうつり住て在名を名乗しにや、光永かつて一宇の寺閣を爰に営みしにより、潮田山と號し、光永寺と名づく、この光行は北條左京太夫氏康の旗下に属せし人なるよしいへり、此人永禄十一年正月二十三日卒す、光永の法號を花岳了臺大禅定門と云、天正十二年三月十八日卒せし人なり、父子ともに當寺に位牌を安ぜり、本堂六間半に六間東向なり、門も同じ
薬師堂。境内に入て左にあり、堂二間四方、薬師は立像にして長七寸許、弘法大師の作と云傳へり。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿佛寺編」による光永寺の縁起

光永寺
位置及寺格
光永寺は、潮田山と號し、鶴見區潮田町一千九百九十三番地に在る。境内は六百十三坪。官有地。區内下末吉町寶泉寺末で、寺格は三等法地五十五級である。
沿革
天正四年四月、潮田左馬介光永が、父光行の遺志を紹いで開基した所で、山號・寺號は、其氏名によつて名づけたと云ふ。開山は下末吉の寶泉寺第四世自山純應和尙である。光永の父は中務光行と云ひ、祖父は北條氏康に仕へた入野將監光興で、其先は今川氏に出づと聞える。光行の時、來つて當地の住人となり、在名によつて氏を潮田と改めた。純應和尙は光興の三男、光行の弟で、幼名を三郞助と呼ばれ、十一歲の時、能登國總持寺に入つて出家を遂げた。爰に光永一寺を營むに當り、乃ち和尙を迎へて開山としたと云ふ。後、潮田氏の退轉により、當寺も亦衰頽せしを、七世の住僧瑞雲龍光、再び興隆を遂げた。故に龍光を以て中興の祖と仰ぐ。第八世活禪、新に堂宇を造立し、更に從來の平僧寺を進めて法幢地に昇格せん事を志したが、未だ其素願を達するに至らずして入寂したので、後住蓮水不染和尙、其遺志を紹ぎ、法寺起立に精進し遂に天明四年三月十八日、法地開闢を允許さるゝに至つた。是に於て本寺法泉寺第十四世好音惠吟和尙を請じて、法地開闢第二世とし、自ら三世となつた。寬文十年、當所地頭松下次郞左衞門より寺内八畝十二步の年貢を赦免せられた。第九世大豐一名和尙の代、舊來の堂宇を縮めて改修した。明治年間に至り、甚しく荒廢したのを、大正十年、現住見山が住持して修覆を加へた。然るに大正十二年の大震災に、堂宇半潰の厄に遇うたので、翌十三年、再び之が修造を遂げた。
本尊
本尊は釋迦如來木坐像、長五寸、作は不詳である。
堂宇
今の堂宇は、本堂桁行四間、梁間四間、亞沿葺、四注造。・庫裡建坪十四坪、亞沿葺。・玄關建坪二坪五合。・物置建坪三坪・書院建坪七十二坪。等である。
境内堂
藥師堂。桁行二間、梁間二間、茅葺。本尊藥師如來は由緖不詳である。(「横浜市史稿佛寺編」より)


光永寺の周辺図


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