慶岸寺。横浜市鶴見区生麦にある浄土宗寺院

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入倉山慶岸寺。横浜市鶴見区生麦

慶岸寺の概要

浄土宗寺院の慶岸寺は、入倉山究竟院と号します。昭覚究竟慶岸(天正9年1582年寂)が当地に創建したといいます。

慶岸寺
慶岸寺の概要
山号 入倉山
院号 究竟院
寺号 慶岸寺
住所 横浜市鶴見区生麦5-13-61
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



慶岸寺の縁起

慶岸寺は、昭譽究竟慶岸大和尚(天正9年1582年寂)が当地に創建したといいます。

新編武蔵風土記稿による慶岸寺の縁起

慶岸寺
往還の西の側にあり。浄土宗神奈川宿慶運寺末入倉山究竟院と号す。開山は昭覚究竟慶岸、天正9年3月15日示寂す。客殿6間四方東に向ふ。本尊弥陀の立像長3尺慶春の作。脇士勢至観音共に長1尺ばかりなるを安す。
門、柱間7尺東に向ふ。客殿より23間ほど距て往還にたつ。
地蔵堂。門にいりて左の側らにあり、3間に2間。本尊立像にて長さ6尺作詳かならず。寛永6年江戸鮫河橋に住める権兵衛といへるもの発起にて、この像を相州某寺へ納むるとてこの門前に憩しに、如何なる因縁にや像たちまち重くなるてうごかず、なすべきやうなければここに安置すと当寺の記録にのせたり。をぼつかなき説なり。
監持稲荷祠。門をいりて左のかたにたてり。小き祠なり。前に鳥居をたつ。古へは当村の濱の邊にあり。そのころは漁者つねにこの社前につどひ集り、汐のときを待て猟船をいたすゆへこの名をとなへり。近きころこの寺へうつせりと云ふ。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿佛寺編」による慶岸寺の縁起

慶岸寺
位置
慶岸寺は、入蔵山究竟院と號し。鶴見區生麥町一千百八十七番地に在る。境内は九畝二步。官有地。神奈川區内慶運寺末で、寺格は能分四等である。
沿革
天正九年の草創で、開山は昭譽究竟慶岸大和尙と云ふ。降つて第十六世聞譽可信の代、元祿十四年本堂を、同十七年に庫裡を再建した。更に降つて明治三十四年、第三十五世諦譽眞康の代に再建した。これが現今の堂宇である。大正十二年九月一日の大震災に、山門倒潰し庫裡大破に及んだが、次いで復興を遂げた。
本尊
本尊は阿彌陀如來立像、長三尺三寸。慶春作と傳へ、兩脇士、觀音・勢至立像各〻長二尺。も同作と云はれてゐる。      
堂宇
今の堂宇は、本堂桁行六間、梁間六間、瓦葺、四注造。・庫裡桁行八間半、梁間五間、亞沿葺。・廊下桁行四間、梁間一間半、亞沿葺。・玄關桁行一間半、梁間一間、亞沿葺。・山門桁行九尺、梁間九尺、亞沿葺。等である。
境内佛堂
地藏堂。桁行二間、梁間二間半、瓦葺。大正七年九月十七日燒失。同年十一月第三十五世眞康代再建。本尊は子育地藏菩薩立像長七尺三寸。で、左の如き緣起がある。
寶永六年、江戸鮫河橋谷町ニ住メル若槻權兵衞トイヘルモノノ發起ニテ、之ノ像ヲ相州某寺へ納ムルトテ、コノ門前ニテ憇シニ、如何ナル故ニヤ、像忽チ重クナリテ動カスコトスベキ樣ナケレバ、此所ニ安置スト云フ。之ノ地藏尊ハ子育地藏ト稱シテ、遠近ヨリ詣スル者夥シク、每月三日・廿三日ハ緣日ヲ催フシテ賑ヘリ。又九月廿三日ニハ、古來ヨリ百味講トテ、農作物ヲ持來リテ奉納スルヲ例トスト云。(「横浜市史稿佛寺編」より)


慶岸寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿