長谷山寶泉寺。間宮豊前守康俊開基、准秩父三十四観音霊場
寶泉寺の概要
曹洞宗寺院の寶泉寺は、長谷山と号します。寶泉寺は、海印智済(大永元年1521年寂)が開山となり創建、当地の領主だった間宮豊前守康俊を開基とするといいます。徳川家康の関東入国後には寺領30石の御朱印状を受領、末寺を数ヶ寺擁していた本寺格の寺院です。准秩父三十四観音霊場18番です。
山号 | 長谷山 |
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院号 | - |
寺号 | 寶泉寺 |
住所 | 横浜市鶴見区下末吉6-19-31 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
寶泉寺の縁起
寶泉寺は、海印智済(大永元年1521年寂)が開山となり創建、当地の領主だった間宮豊前守康俊を開基とするといいます。徳川家康の関東入国後には寺領30石の御朱印状を受領、末寺を数ヶ寺擁していた本寺格の寺院です。
新編武蔵風土記稿による寶泉寺の縁起
(下末吉村)寶泉寺
字根通にあり、曹洞宗にて多磨郡青梅村海禅寺末、開山は海印智済と云、大永元年八月六日示寂せり、前にもいふ如く間宮豊前守康俊古此地を領せしゆへ、其かみ當寺を開基せしと云、康俊豆州山中城にて戦死ののち、その家人などの造営建せしものとみへて、今本堂に位牌あり表に當寺開基間宮豊前守殿宿宗覺菴主天正十八年三月二十九日とえり、裏に日牌勢宥阿闍梨法印とありて、下に榮山傳盛居士明岳貞意大姉とえれり、今康俊が子孫多く旗下の士に列すれども、この裏に記せし法諡は何人なることを詳にせざれば、康俊が家賴などの子孫なるにや、當寺永禄十二年住持永芳のとき北條家より當寺へ寄附せし文書あり、後御當家に至りて御朱印を賜はりしが、第四世の時失火して堂舎殘りなく烏有し、右の文書及び御朱印等悉く火失せりと、其咎にて此僧をば削りて歴代の内にかぞへず、かかりしより後は御朱印をも下し賜はらずと云。
表門。南に向ふ柱間九尺葷酒を禁ずるの石標をたつ。
本堂。表門の正面にあり十間に七間半本尊釋迦の立像長一尺二寸。
鐘楼。本堂に向ひ右の方にあり九尺四方、鐘のわたり二尺五寸、寛永八年當寺第六世大室の時、潮田村の一翁と云もの撞鐘を寄進せしが、其後いてきたりとて寶永四年八月住持慧満の頃、鑄なをせしよし銘文に見えたり、されど此再鑄の時の撰にしてさせる考證にもならざれば略しぬ。
釋迦銅像。本堂の前にたてり、臺坐とも五尺許、此像は寶永年中鐘を鑄し時同く造れりと云、堂はなし世俗濡佛と唱るものなり。
白山祠。釋迦像に向ひ右の方にあり、小祠境内の鎮守なり。
稲荷祠。白山の西の方にあり小祠正一位丸山稲荷と云。
裏門。表門に向ひ大門前のうちにあり、柱間九尺南に向ふ。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿佛寺編」による寶泉寺の縁起
寶泉寺
位置
寶泉寺は長谷山と號し、鶴見區下末吉町四百七番地に在る。境内は一千七百九十四坪。官有地。東京府下西多摩郡二俣尾村海禪寺末で、寺格は二等法地二十二級、秩父新札所三十三箇所靈場の第十八番札所である。
沿革
永正元年三月、海印智齋禪師の草建で、開基は間宮豊前守康俊である。其後、德川家康江戸入國の後、當所に於て寺領三十石の黑印地を寄進せられ、住僧登城の際は、萬石の格式で道中の通行を許容せられたと云ふ。當時使用の朱塗籠、其他は殘存してあつたが、大正十五年一月一日、火災に罹つて燒失した。元和三年十一月、年月不詳第八世代頃、慶應二年及び昭和元年の四囘に、炎上の厄を被り、開山以來の什寶・舊記の燒失によつて、沿革等が不明となつた。唯、元祿の頃、檢地の際に、寺領十五石の地を削除地とされたこと第十六世泰學好禪和尙代、及び第二十三世原秀芳代に、本堂の再建が行はれたこと等が傳はるのみである。今の堂宇は、大正十五年一月一日、洩電のため炎上した爲め、現住第二十四世松坂秀天が再建した假堂で、今、諸堂再建を企劃中である。當寺は今、左の九箇寺の末寺を統べて居る。
川崎市砂子町 宗三寺
駿河國駿東郡深澤村 大雲院
市内鶴見區潮田町 光永寺
都筑郡大熊村 長福寺
市内鶴見區江ヶ崎町 壽德寺
橘樹郡中原町今井 大乘院
川崎市戸手町 淨翁寺
市内鶴見區買上末吉町 行定庵
川崎市大島町 西運庵
本尊
本尊は釋迦如來の木造坐像作者不詳である。
堂宇
今の堂宇は、本堂兼庫裡 建坪三十二坪、瓦葺、假建築。及び鐘樓堂 桁行九尺、梁間九尺、亞沿葺。である。(「横浜市史稿佛寺編」より)
寶泉寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
参考資料
- 新編武蔵風土記稿