寿福寺。横浜市都筑区茅ヶ崎東にある浄土真宗本願寺派寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

綱崎山寿福寺。旧小机領三十三所子歳観音霊場

寿福寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の寿福寺は、綱崎山と号します。寿福寺は、清和源氏多田行綱の子智空が開山となり、真言宗長福寺と号して創建したといいます。その後衰微したものの空誓(寛永2年1625年寂)が中興、惇信院殿の御幼名を避けるため享保元年(1716年)壽福寺と改めたといいます。旧小机領三十三所子歳観音霊場19番です。

寿福寺
寿福寺の概要
山号 綱崎山
院号 -
寺号 寿福寺
住所 横浜市都筑区茅ヶ崎東1-7-1
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



寿福寺の縁起

寿福寺は、清和源氏多田行綱の子智空が開山となり、真言宗長福寺と号して創建したといいます。その後衰微したものの空誓(寛永2年1625年寂)が中興、惇信院殿の御幼名を避けるため享保元年(1716年)壽福寺と改めたといいます。

新編武蔵風土記稿による寿福寺の縁起

(茅ヶ崎村)壽福寺
除地、六段、字臺にあり、綱崎山と號す、浄土真宗、西本願寺の末寺なり、始は長福寺と號せしが、享保元年十一月惇信院殿の御幼名を避て、今の寺號に改たり、開山智空は、正安二年十月二十八日化す、この人俗姓は清和源氏にて、その先頼光よりいづ、父は頼光の孫頼綱の二男行綱なり。その發心の由来をしるせしものあり、その文に、長福寺□□見號す、眞言宗也、清和天□□多田山城守行綱菩提所也、行綱孫福壽丸と申、福壽丸懐□時、観音夢相御告、黄色の蓮花観音在御口受容と覺、夢□□其懐人身となり玉ふ、満月無難平産有、七夜内福壽音無量御告有、依名福壽丸奉申、観音再誕と云、□□二才時普門をよみ玉ふ、七歳春比より観音夢相御告、發心眞言法門極めん爲、廿五年覺近遂自身見開□、末世衆生すくい助けん思召萬行なれば修人なし、観音へ三七日断食、末世衆生安成佛法教御祈誓し給ふ、観音御氏原氏聖人有一向専□量壽佛聖あり、越州至て弟子なり、末世衆生歳度、□告に御年三十二歳、夏月中越後國國分尋給、聖人御體面、遂観音夢相、儀氏清和天皇御末多田萬中末孫、山城守行綱孫にて候、始終語り給□第けい約、遂其名釋智空□給る。□真宗念佛へ行修し、自か薙行法門捨浄土門に入て其名改、福ふくなり、壽はいのちと云、二字の心とむなかいと云心なり、壽字長□、故寺號長福寺云なり、先住綱崎小慈眼院と云、正安元年亥夏月日、受了空花押、釋智空法師傳、二世了空は観應二年二月八日に寂せり、それより教空・圓空・慧空・善空・空榮・永空の六世を歴て、空誓に至れり、空誓は寛永二年十月九日寂せり、然るに貞享年間呈書の案には、慶長十八年空誓開基より七十五年に及ぶなどみゆ、よりて按するに、もと智空法師が開基せしなれども、一旦衰微せしにより、空誓が中興せしなるべし、客殿五間に四間半、本尊彌陀は中興のとき本山より授けし所なりとぞ。(新編武蔵風土記稿より)


寿福寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿