澁澤山心行寺。増上寺だった当地に江戸期創建
心行寺の概要
浄土宗寺院の心行寺は、澁澤山龍泉院と号します。心行寺は、相誉上人(慶長19年1614年寂)が開山となり創建したといいます。荏田村が崇源院(徳川秀忠正室)の化粧領地、次いで増上寺領だったことから、当寺に徳川将軍家の位牌が安置されているといいます。
山号 | 澁澤山 |
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院号 | 龍泉院 |
寺号 | 心行寺 |
住所 | 横浜市都筑区荏田東4-10-1 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
心行寺の縁起
心行寺は、相誉上人(慶長19年1614年寂)が開山となり創建したといいます。荏田村が崇源院(徳川秀忠正室)の化粧領地、次いで増上寺領だったことから、当寺に徳川将軍家の位牌が安置されているといいます。
新編武蔵風土記稿による心行寺の縁起
(荏田村)心行寺
年貢地、二畝二十歩、これも澁澤谷にあり、澁澤山龍泉院と號す、浄土宗、江戸芝増上寺の末寺なり、開山相譽慶長十九年五月六日化す、客殿六間四方西向なり、本尊彌陀の立像長一尺四寸、大貳の作なりと云。
観音堂。客殿に向て左の方にあり、二間四方南向なり、観音は立像にて長九寸、定朝の作とあり。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による心行寺の縁起
当山の開創は定かではないが、開山相誉上人の没年より文禄・慶長年間にかけての開創と推察される。新編武蔵風土記稿によれば、「荏田村澁澤谷にあり。澁澤山龍泉院と號す。浄土宗江戸芝増上寺の末寺なり。開山相誉。慶長十九年五月六日化す。客殿六間四方西向なり。本尊弥陀の立像、長一尺四寸。大貳の作なりと云う。観音堂。客殿に向て左の方にあり、二間四方南向なり、観音は立像にて長九寸、定朝の作とあり。年貢地二畝二十歩」とある。
当山には徳川将軍家の位牌が安置されている。その昔徳川家ご入国の際、当時の荏田村は二代将軍秀忠公の正室、お江の方(崇源院)のお化粧領地であった。崇源院逝去の際は、名主を始めとした村人三百五十人が落髪し、お棺を担いだと記録にある。その後荏田村は石川村や川和村などと同じく増上寺に寄進された。当山はその増上寺の末寺であることから特に歴代将軍家とのご縁が深く、位牌を安置する由来である。(境内掲示より)
心行寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿