城根山妙蓮寺。越中國阿闍梨朗慶が村内城山の麓に草創
妙蓮寺の概要
日蓮宗寺院の妙蓮寺は、城根山と号します。妙蓮寺は、越中國阿闍梨朗慶(貞治5年1366年寂)が村内城山の麓に、康永3年(1344)草庵を結び草創、碑文谷村法華寺六世で谷中感應寺の日耀(文明6年1474年寂)が長禄年間(1457-1461)に再興、享禄3年(1530)当地へ移転して城根山妙蓮寺と号したといいます。
山号 | 城根山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 妙蓮寺 |
住所 | 横浜市都筑区川和町977 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
妙蓮寺の縁起
妙蓮寺は、越中國阿闍梨朗慶(貞治5年1366年寂)が村内城山の麓に、康永3年(1344)草庵を結び草創、碑文谷村法華寺六世で谷中感應寺の日耀(文明6年1474年寂)が長禄年間(1457-1461)に再興、享禄3年(1530)当地へ移転して城根山妙蓮寺と号したといいます。
新編武蔵風土記稿による妙蓮寺の縁起
(川和村)妙蓮寺
除地、二段五畝歩、村の南の方にあり、城根山と號す、日蓮宗にて甲斐國身延山久遠寺の末寺なり、古は江戸谷中感應寺の末寺なりしと云、をもうに感應寺改宗の時より身延の末に屬せしなるべし、縁起を閲るに、康永三年越中國阿闍梨朗慶村内城山の麓に、草庵を結びて棲運の地とせり、貞治五年入寂の後中絶せしが、後に江戸谷中感應寺の日耀、長禄年中再興してここに移り住せり、按するに此日耀は、荏原郡碑文谷村法華寺六世の住僧にて、文明六年三月十五日寂せり、又太田道灌が【平安紀行】に川崎の宿に休みける折節、長光寺日耀がもとよりくた物など僧にもたせて送りしよしみえたり、もしこの人にや、さればこの頃道灌などともしたしき人とみえし、それより僧日慶在住の時まで、かの城山の邊にありしが、享禄三年三月十三日、今の地へ引移してより始て城根山妙蓮寺と號せり、又その頃有信の士人、長崎遠江といひし者の子に、善左衛門政安と云ものあり、信心無二の人なりければ、宗祖日蓮の像を造立せり、これ天文八年なり、明る九年に日慶化す、其頃のことにや、政安田畑五十石餘の地を開墾して當寺へ附せしと云、その後しばしば住僧たえて、坊中の看守の持なりしが、寛永九年此村検地のとき、古来寺域の外二段の地を免除せられしとぞ、天和三年客殿以下の造營をくはだて、八月に至りことことく成しと云、今の客殿はその頃のさまを失はざるにや、大さ八間に七間ありて、本尊三寶祖師を安せり、又昔は別に祖師堂もあり、その本尊は朗慶の彫刻なりと云、この堂一旦回録にかかりてより後、客殿に安すと云、長一尺許の坐像なり。
鐘樓。境内に入て左にあり、鐘に寶永三年の銘文を彫る。
七面社。境内のつづきなれども、客殿よりはそこばく路をへだてし所なり、これ村内日蓮宗門のものの鎮守なり、縁起に云、昔沙門日勇と云ものあり、下總國野呂の長崇學室に入て修學すること年をつみしかば、其學識ほぼ群にこたえり、然るに天和四年より思ひをおこして宗のために諸國を行脚しけるに、至る處法験いとあらたなりしとぞ、元禄七年六月江戸にありしとき、小川市右衛門亮次と云ものの一子、九十郎亮明時に年九歳なりしが、痢病をうれひて已に難治の症となりしを、日勇ゆかりに付てかれが病床に望み、七面明神へ祈請しけるゆへ、不測に平癒しければ、かの父子湯仰にたへず、その後黄金あまた出して、一宇の梵刹を造立せんとす、日勇その誠心を感じて、ここかしこに至り、その處をみるに幸ひなるかな、當所は朗慶阿闍梨の舊跡にして、しかも土地の形勝いとよろしければとて、明る八年巧匠をあつめて土木の巧を起し、日ならずして成就せり、ここに江戸浅草にすみ醫師を業とせる若林玄休と云もの、因縁あるにより、造刻せし七面の靈像を感得せり、兼てわが信ずるものなれば、歓喜の思をなし、そのまま堂中に安置す、時に四月三日なり、これより以来、靈験あらたなりと云々、社は九尺四方にて、拝殿三間四方、前に石階あり、側に寮あり、僧をおきて守らしむ。
開山碑。青石の碑なり、高さ二尺餘、面に七字の題目を彫り、下に貞治五年二月九日(新編武蔵風土記稿より)
妙蓮寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿