天王寺|台東区谷中にある天台宗寺院

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護国山天王寺|江戸三富の谷中感應寺、谷中七福神の毘沙門天

天王寺の概要

天台宗寺院の天王寺は、護国山と号します。天王寺は、もと長燿山感應寺尊重院という日蓮宗寺院として、鎌倉時代に創建され、9ヵ院を擁する本寺でしたが、不受不施派に対する禁令により天台宗に改宗しました。享保年間には富くじ興行が許可されたことで賑い、湯島天満宮目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称されるほどに賑わっていましたが、上野戦争では、当寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残して堂宇を全て焼失、さらに昭和32年の放火心中事件で五重塔を焼失しました。谷中七福神の毘沙門天が祀られています。上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場9番札所です。

天王寺
天王寺の概要
山号 護国山
院号 -
寺号 天王寺
住所 台東区谷中7-14-8
宗派 天台宗
縁日 元旦修正会、元旦-1月10日谷中七福神巡り
葬儀・墓地 -
備考 上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場9番札所



天王寺の縁起

天王寺は、もと長燿山感應寺尊重院という日蓮宗寺院として、日蓮上人が開基となり、鎌倉時代に創建、9ヵ院を擁する本寺でしたが、不受不施派に対する禁令により天台宗に改宗しました。享保年間には富くじ興行が許可されたことで賑い、湯島天満宮目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称されるほどに賑わっていましたが、上野戦争では、当寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残して堂宇を全て焼失、さらに昭和32年の放火心中事件で五重塔を焼失しました。谷中七福神の毘沙門天が祀られています。

「下谷區史」による天王寺の縁起

天王寺(谷中天王寺町三四番地)
延暦寺派、本尊毘沙門天王。
本寺はもと寺號を長耀山、寺號を感應寺といひ、日蓮宗であつた。即ち寺の縁起、寺傳によれば、宗祖日蓮、鎌倉より本國安房或は上野鹽原に湯治の往還の途次、谷中村の地下の武士關小次郎長耀の家に寄宿し、長耀夫妻をはじめ近隣村民を教化した。長耀遂に屋敷内に別に草庵を設けて師を待ち、日蓮は通過の度毎にこゝに滞在して法談するを常としたが、日蓮の遂に化を寝めて山に入らんことを告げるや、關氏形見のため手づから御影を作りて草庵に遺し置かれんことを懇望し、聖人も之を黙し難く、自影一軀を刻して遺し置かれた。日蓮入寂の後、關氏はじめ信仰の諸檀那地を寄せて寺を立て、かの聖人自刻の像を本尊とし、僧日源を開山とした。これが本寺の濫觴であつて、山號寺號は、關氏の名によつてのである。本化別頭佛組統記の日蓮大菩薩本紀には日蓮の關氏を過つたのを文永十一年三月、日蓮が佐渡より鎌倉へ歸るの途としてゐる。同書は長耀山縁起よりも後の著述であるからかゝる差違を生じたのであらう。この後寺は衰へたが、享徳元年に至り碑文谷法華寺の僧日耀之を坐視するに忍びず當寺に移り、諸檀那に勸めて、廣傳の地を寄進せしめて殿堂を建て、衆徒を領し行事を勤めた。この地は即ち柚木屋敷である。之より寺運興隆したが、日運の代元禄元年に囘録の災に罹り、客殿、庫裏等烏有に歸したるを以て原屋敷に假藍を移轉し、衆徒も共に移つた。
寛永十五年正月、徳川家光鷹狩の途この寺を過り、住持日長を召して寺傳宗旨等を問ひ、十月又臨んだと傳へられるが、同十八年日長は境内狭少の故を以て隣地拝領のことを幕府に請ひ、十月、隣地二萬九千六百九十餘坪を給せられ、寺家を悉く之に移した。尋で慶安元年八月十七日、寺領竝に寺中門前山林竹木安堵の朱印を與へられた。
日長は當寺の中興とよばれ、元和七年入寺以来上記の他に庫裏、客殿の造營、諸堂の修理に努めた。有名な五重塔も、彼が建てたので、寛永二十年十一月に着手し、翌正保元年七月に造畢した。この時塔の屋根を銅を以て葺かんとしたが格式に稱はざるを以て許されず、輪王寺宮に愁訴し、宮の助言によつて遂に之を免された。日長はこの恩を謝するため寛永寺根本中堂の西に自ら役して樹木(主として松)を植ゑた。これ同所が日長ヶ原を以て呼ばれる所以であると傳へられる。然し之は傳説であつて誤謬のあることは第二十二章第一節に於て述べるが如くである。この塔は明和九年二月の火災に焼亡し、寛政年間再建せられ、以て今日に及んでゐる。日長は慶安元年八月朱印を賜て間もなく隠居した。長耀山縁起はその十月彼が後代に遺さんがために記述したものである。そして同四年寂した。
當寺は日長が既にその縁起にも記する如く不受不施派で池上本門寺日樹の系統に屬してゐたが、その唱へるところは比較的穏健であつたと見え、かの寛永七年の不受不施派禁斷の際には法難を免れた。しかし元禄の頃十世日妙、十一世日誠等、碑文谷法華寺市ヶ谷自證院等と共に悲田派(不受不施派の變形)を唱へたため、當局の禁に觸れ、同四年四月二十八日、日妙、日誠は遠島に處し、廢寺改宗を命ぜられ、元禄十二年天台宗に轉じ、寛永寺末となり、權僧都慶運を以て之が開基とした。慶運は上總夷隅郡の人大保福寺より轉住し宗祖傳教大師自刻の多聞天の靈像を請うて本堂に安置し、公辨親王之が開眼供養を勤修し給うた。翌十三年十二月、慶運は信州善光寺別當に任ぜられ、既に囘禄の災に罹つて本堂竝に諸堂宇全滅の惨状を呈しつゝあつた同寺再建のため、全國を巡囘化導して浄財を蒐めること七年、寶永四年八月遂に宏壮雄大なる現今の善光寺本堂を落成し、正徳五年江戸小石川昌泉院に退隠し、法華経を讀誦すること五千餘部、享保十四年五月二十四日唱名示寂した。
さて當寺は延享四年及び寛延元年の兩度類焼の厄に遭ひ、本堂、諸堂、坊舎悉く烏有に歸し、尋で再建せられたが、安永元年また類焼し、天明五年、佛殿、堂宇、庫裏、僧房、鐘樓に至るまで全く舊觀に復し、寛政三年十月五重塔再建落成した。
天保四年長耀山感應寺の寺號を護國山天王寺と改稱した。蓋し毘沙門天王護國の意である。この寺號改稱に就いては一方に日蓮宗寺院として感應寺再興の事情があつた。それはかの高田鼠山(雑司ヶ谷)に大奥女中の請願によつて日蓮宗の新寺が建立せられたが、新寺建立は元禄以後幕府の厳禁するところであつたから、日蓮宗の谷中感應寺の再建といふ名目を以て創立に着手し、同時に天台宗の感應寺は天王寺と改められたのである。鼠山の感應寺は天保八年五月落成し、池上本門寺の末寺となつたが、天保の水野越前守忠邦の改革に際して、住僧と大奥女中等との間に忌まはしい關係のあつたのを名として破却せられるの運命に陥つた。
明治元年五月、東臺の役には寺内彰義隊の屯營するところとなり、闔山兵變に罹り、僅かに本坊及び五重塔等を殘して全焼し、現今の建物は假本堂、書院、毘沙門堂、庫裏、大佛竝に五重塔に過ぎず、また境内は同七年七月、本坊境内地、舊塔頭安立院、了俒寺及び墓所を除くの他は、總て谷中共葬墓地に編入せられて大いに縮小し、共に昔日の面影を偲ぶべくもなくなつた。
なほ當寺墓地には儒者鹽谷宕蔭、書家巻菱湖、俳人田川鳳朗等の墓がある。
江戸時代に行はれた當寺の富興行に就いては第二十四章第三節に記すことゝする。(「下谷區史」より)

台東区教育委員会掲示による天王寺の縁起

日蓮上人はこの地の住人、関長燿の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長燿は草庵を結び、その像を奉安した。伝承による天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(1294-1427)頃の創建という。
「東京府志料」は、「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ日蓮宗ニテ長燿山感應寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで”富くじ”興行が開催された。目黒不動滝泉寺湯島天満宮の富くじとともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。
元禄12年(1699)幕府の命令で、感應寺は天台宗に改宗した。ついで天保4年(1833)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、「五重塔」で知られていた。しかし昭和32年7月6日、惜しくも焼失してしまった。(台東区教育委員会掲示より)


天王寺所蔵の文化財

  • 天王寺五重塔跡(東京都史跡)
  • 塩谷宕陰の墓(東京都旧跡)
  • 田安宗武墓(8代将軍吉宗の次男、松平定信の父)
  • 大橋訥庵墓(坂下門外の変で老中安藤信正を襲った人物)
  • 朝倉文夫墓(明治時代の彫刻家)
  • 牧野富太郎墓(植物学の大家)
  • 木造毘沙門天立像(台東区指定文化財)
  • 旧感應寺(天王寺)富興行関係資料(台東区指定文化財)
  • 絹本着色両界曼荼羅(台東区登載文化財)
  • 絹本着色阿弥陀二十五菩薩来迎図(台東区登載文化財)
  • 絹本着色天台大師画像(台東区登載文化財)
  • 銅造釈迦如来坐像(台東区登載文化財)
  • 村垣淡路守範正墓(遣米副使)

木造毘沙門天立像(昭和62年度指定)

本像は、ヒノキ材の一木造で、体内をくりぬかない彫法によって作られています。量感あふれる体型と頬と顎の張った表情や、大袖の特徴ある衣文の彫りは、その作風から平安時代中期(10世紀)ごろの作品とみられます。像高は116.8cm。頭、体とも正面を向き、邪鬼の上に立ち、左手に宝塔をのせ、右手には宝棒を握っています。
天王寺は、もと感應寺という日蓮宗の寺院でしたが、元禄11年(1698)江戸幕府の命令で天台宗に改宗させられました。この改宗にさいし、京都の鞍馬寺が比叡山の乾(北西)の方角にあり毘沙門天をまつっていることになぞらえて、寛永寺の乾の方角にあたる天王寺にも毘沙門天を迎えることになりました。こうして本像は元禄12年比叡山からもたらされ、この寺の本尊になりました。天王寺の毘沙門天は、江戸の人々の信仰を集め、多くの参詣者でにぎわいました。江戸時代後期からは、谷中七福神のひとつに数えられ、いまも庶民に親しまれています。
本像とともに指定をうけた『感應寺毘沙門天王記』は、享保16年(1731)寛永寺凌雲院実観の筆になるもので、本像が比叡山から天王寺に移された経緯がくわしく記されています。

旧感應寺〈天王寺〉富興行関係資料(平成4年度指定)

天王寺は、かつて感應寺という日蓮宗の寺院でしたが、元禄12年(1699)天台宗に改宗、天保4年(1833)天王寺と改めました。
この感應寺では天保13年まで、現代の宝くじのル-ツ「富突」を催し“谷中感應寺の富突”といえば江戸市民の人気をもっとも博したものでした。この天王寺には富突の実態を克明に記録した、次の11点の史料が遺されています。
◆「富御祝儀渡帳」
1冊文化6年(1809)以後の成立
◆「(富興行)定書」
1枚、天保4年(1833)から同5年
◆「当山帰宗一件記」
1冊、嘉永2年(1849)成立
◆「富興行一件記」
3冊、嘉永2年(1849)成立
◆「当時有形絵図面」
1枚、嘉永2年(1849)成立
◆「奉歎願口上覚」
1冊、嘉永3年(1850)成立
◆「奉伺口上覚」
1冊、嘉永4年(1851)成立
◆「突富興行願諸用記」
1冊、安政3年(1856)成立
◆「感應寺領坪数并持添地其外坪数訳書之写」
1冊、享保6年(1721)の記録を江戸末期~明治時代に写したもの。
◆「感應寺領坪数并持添地其外坪数訳書」
同前、
◆「保存箇所并堂宇再建見込書」
1冊、明治22年成立
実は、これらの史料が発見されるまで、感應寺はおろか、江戸時代の富突の実態はあまり明らかではありませんでした。しかし、天王寺の史料を解読してみますと、富興行のありさまが細部にわたって理解できます。
たとえば従来の定説では、幕府公認の富興行は享保15年(1730)京都仁和寺が江戸音羽護国寺境内で行ったものが最初と考えられてきましたが、天王寺の史料によって、それより30年前の元禄末年(1700年頃)には感應寺で興行していたことがわかりました。
その他、富突の開催をめぐる感應寺と幕府の交渉の有様、富札1枚の値段が庶民にとって高額だったことから生じたヤミ行為の顛末、あるいは富突に使用する箱・札・錐などの道具の寸法といった細かいことまで、様々な事実が明らかとなっています。
天王寺所蔵の11点の富興行関係史料は、単に富突だけでなく、江戸の風俗・文化を知る上でも、きわめて貴重な史料です。

絹本着色両界曼荼羅(平成2年度登載)

天台宗天王寺所蔵の本図は、胎蔵界曼荼羅・金剛界曼荼羅の双幅からなる、もっとも一般的な形式の曼荼羅です。胎蔵界曼荼羅は、大日如来ほか諸仏の慈悲を象徴化し、金剛界曼荼羅は大日如来の智徳によって開かれた仏の世界を象徴化した図です。
大きさは、胎蔵界が縦100.6cm・横100.9cm、金剛界が縦100.9cm・横86.2cm。
両界とも、京都東寺の伝真言院曼荼羅(国宝)とよく似ていますが、同図が平安時代の制作で唐様式の濃い図であるのに対し、天王寺所蔵の曼荼羅は和様化がすすんだ図で諸仏の顔に可憐さを感じる点から、鎌倉時代後半の制作と思われます。区内現存の曼荼羅でも古い制作に属する、貴重な美術品です。

絹本着色阿弥陀二十五菩薩来迎図(平成3年度登載)

天王寺はもと長燿山感應寺といい、元禄12年(1699)日蓮宗の一派に対する弾圧により天台宗に改宗、のち護国山天王寺と改めました。
来迎図は、臨終の際に阿弥陀如来など聖衆が眼前に現れ、極楽浄土に迎えるという『観無量寿経』に説く情景を描くもので、浄土信仰の興隆とともに制作され、平安時代に正面坐像系・斜め坐像系が、鎌倉時代に能動的な如来の姿として立像系来迎図が登場、普及していきました。
本図は、縦102.2cm、横43cm。阿弥陀を中心に、向かって左上方から二十五菩薩立像を斜め構図で、顔・手・楽器の細部まで金泥で緻密に描き、向かって右上方に七化仏を配します。肉身部は地蔵菩薩を除き丹の具地に金泥塗。輪郭線は朱で描き、輪郭・衣紋・光背に切金を用い、衲衣は丹の具地に、文様を金泥で描きます。以上の表現から、作者は不明ですが、南北朝時代の制作とわかります。
旧蔵者は当寺第16世住職であり天台教学者として著名な福田尭頴で、明治42年12月の修理銘があります。尭頴は明治39年、比叡山延暦寺より転住し、その際に本図がもたらされたものであると考えられます。

絹本着色天台大師画像(平成4年度登載)

天台大師智顗は、天台宗の開祖としてわが国では古来尊崇され、その肖像画も平安時代以来多く描かれました。
天台宗天王寺の所蔵になる本図は、大きさが縦96cm、横41cmで、沓と水瓶を前の床に置き、頭布を被り禅定印を結んで曲ろくの上に坐る姿を描き、典型的な天台大師像を表現しています。褐色の袈裟を着け、紺色の条葉部には金泥で唐草文を描き、衣文線には墨線に金泥の線が添えられて用いられています。なお、作者については土佐行光筆と伝えますが、確証はありません。しかし、その、のびのびとした描線による、おおらかな表現は古様を示しています。
軸止め墨書により、もと大和の金峰山寺の宝物であったと知られます。真言宗僧侶、丸山貫長という人物がこれを所蔵していたのを、個人が買い受け、大正4年6月に当寺に寄進しました。
本図は、その描法により南北朝時代の作品と知られ、確実な筆使いで描かれており、絵具の剥落もこの時代のものとしては少なく、制作は優秀であり、貴重です。

銅造釈迦如来坐像

本像については、『武江年表』元禄三年(一六九〇)の項に、「五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背画の銘文にも、制作年代は元禄三年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第十五世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。
昭和八年に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。『江戸名所図会』(天保七年「一八三六」刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治七年の公園谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和八年六月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和十三年には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。
なお、「丈六仏」とは、釈迦の身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合にはその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。
本像は、明治四十一年刊『新撰東京名所図会』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。
平成五年に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。(台東区教育委員会掲示より)


天王寺の周辺図


参考資料

  • 御府内寺社備考
  • 「下谷區史」