大井三嶋神社。源頼朝が三島大社を勧請、大井宮
大井三嶋神社の概要
大井三嶋神社は、足柄上郡大井町にある神社です。大井三嶋神社は、治承4年(1180)に挙兵した源頼朝が、平氏追討・源氏再興を果たした際、日頃より深く信仰していた三島大社を修復再興、次いで八ヶ所に三島神社を勧請した社のうちの一社とされます。関東管領足利氏・小田原北条氏・小田原城主大久保氏稲葉氏など累代領主から社領の寄進を受け、上大井・下大井・西大井・金子の鎮守として祀られ、大井宮・大井大明神と称されていました。明治維新後の社格制定に際し、明治6年郷社に列格していました。
社号 | 三嶋神社 |
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祭神 | 積羽八重事代主命、大山祇命、伊古那姫命、大山咋命、伊弉那岐命、弟橘姫命、白山姫命、菅原道真公、倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 厳島社、稲荷神、金比羅社 |
祭日 | 4月2日、酉の市12月22日 |
住所 | 足柄上郡大井町上大井331 |
備考 | 旧郷社 |
大井三嶋神社の由緒
大井三嶋神社は、治承4年(1180)に挙兵した源頼朝が、平氏追討・源氏再興を果たした際、日頃より深く信仰していた三島大社を修復再興、次いで八ヶ所に三島神社を勧請した社のうちの一社とされます。関東管領足利氏・小田原北条氏・小田原城主大久保氏稲葉氏など累代領主から社領の寄進を受け、上大井・下大井・西大井・金子の鎮守として祀られ、大井宮・大井大明神と称されていました。明治維新後の社格制定に際し、明治6年郷社に列格していました。
「大井町史」による大井三嶋神社の由緒
上大井村・西大井村・金子村の鎮守杜
この三村の鎮守杜は上大井村にある三嶋大明神である。当時下大井村(小田原市)の鎮守社でもあった。由緒書によると三嶋大明神は、治承四年(一一八〇)に源頼朝によって建立されたと伝えられている。天和二年七月に小田原藩主稲葉正則によって、下大井村内に五石四升、上大井村内に一石八斗九升八合、合わせて六石九斗三升八合の杜領が寄進された。一二嶋大明神の祭神は大山祇命で、本社(間口六尺三寸、上屋間口二間半、奥行三間)には神体として黒烏帽子直垂袴着姿の木立像(高二尺一寸)、脇神として同様の木立像が三体(それぞれ高二尺、一尺三す、九寸)が安置され、これらは運慶の作と伝えられている。また拝殿は間口五間半、奥行三間、幣殿は間口九尺、奥行二間であった。本地堂(三間四方)には本地仏薬師如来(高三尺、木立像)が安置されていた。同境内には末社として正一位足柄稲荷大明神と呼ばれる稲荷社(間口五尺三寸、上家二間半、奥行二間四尺)があり、神体として運慶作と伝えられる勢至菩薩が安置されている。境内の池中には弁才天社があり、これも末社である。このほか神楽殿(間口二間、奥行三間)、鐘楼堂(一丈四方)、別当屋敷がある。三嶋大明神の別当は先述のとおり、古くから円泉坊が勤めていた。(「大井町史」より)
神奈川県神社誌による大井三嶋神社の由緒
創建年月日は詳らかではないが、当社の縁起録によれば人皇七十八代二条天皇永暦元年(一一六〇)源頼朝伊豆国蛭ヶ島に流罪の身となって、伊東祐親の館に在った時、常に同国三島神社を祈願所として深く信仰し源氏の再興を念じた。或夜伊豆国の領主平家の目代山本判官平兼隆が奉納した兜を自らの手のもとに一刀両断した夢をみて、覚めてこれ奇異の霊夢と感涙にむせび以後信仰の念を更に深めたのである。
たまたま第八十代高倉天皇の治承四年(一一八〇)四月後白河法皇の皇子高倉宮以仁王が平氏追討の令旨を諸国の源氏に伝えた時、頼朝時こと至れりと大いに喜び勇み、其の年の八月伊豆相模の武将を集めて平兼隆を伊豆八牧に夜襲し、火を放って兼孝をはじめその郎党を残らず討ちとったのである。この挙兵に成功した頼朝は先ず第一に伊豆国三島神社を修復再興し、次いで八ヶ所に三島神社を勧請することを誓って所々に三島神社を勧請したのであるが当社のその随一である。
爾来より頼朝は当社を守護神と崇め、建久元年(一一九〇)十月後白河法皇に謁するため上洛の際や、同四年五月富士野に牧狩に赴いた時など参拝し奉幣している。
其の後関東管領足利氏社領を寄進し、次いで小田原北条氏を始め、小田原城主大久保氏稲葉氏社領を寄進して護神崇敬したのである。
古来から三島大明神と称えられていたが、明治六年六月郷社と定められ、昭和四十三年遣幣使参向の神社と指定される。(神奈川県神社誌より)
新編相模国風土記稿による大井三嶋神社の由緒
(上大井村)
三島社
古は大井宮と唱ふ、(別當圓泉坊所蔵古文書、及び大住郡石田村民蔵弘治二年の文書、【北條役帳】等に見ゆ)社地古木鬱蒼たり、祭神大山祇命、木像四軀を置、(一は長二尺一寸、一は二尺、一は一尺三寸、一は九寸、各運慶作、)當村及び下大井・西大井・金子・都て四村の鎮守なり、例祭九月廿九日、境内に二月廿八日の雛の市、十二月廿二日年の市立り、觀應二年八月足利基氏村内にて社領を寄附す、(注釈を読む)
應永三十年十一月足利持氏又神領を寄加せしと云、(注釈を読む)
大永二年、北條左京大夫氏綱、社領法度の條目を定む、(注釈を読む)
某年、北條氏當社を放鷹の休息所とせし時、遠山治部某敷物等の事を下知す、(注釈を読む)
永禄十一年正月、境内制禁の法令を出す、(注釈を読む)
文禄元年二月、領主大久保七郎右衛門忠世、社領五貫八百文の地を寄附す、(注釈を読む)
某年、松田惣領延命寺修理の材に、社地の松樹を乞に依、領主大久保氏の臣、其事を傳ふ、(注釈を読む)
慶安二年稲葉美濃守正則、舊に因て、六石九斗三升八合(内一石八斗九升八合當村、五石四升下大井村)の神領を附す、今猶然り、天和二年七月、さらに社領寄附の證状を授與あり、
△辨天社。境内池中にあり、
△稲荷社。足柄稲荷と云、(神體は運慶作の勢至なりと云ふ、)
△神楽殿
△鐘樓。享保十六年鑄造の鐘を掛、
△本地堂。薬師を安ず、(長三尺、運慶作、)
△別當圓泉坊。古義眞言宗、(京仁和寺末にて、金子村最明寺より傳法す、)開山開基共に傳へず、古より肉食妻帶なり、古文書九通を蔵す、内七通は前に注記せり、二は北條氏より、小田原宮前町賀藤某に與へし下知状なり、
(其一は壬午卯月廿七日、宮前町賀不二と記し、虎朱印あり、一は寅五月廿二日、宮前町奉行賀藤と記し、幸田主三奉之と見ゆ、全文は當坊に與からざれば、小田原宮前町の條に詳載す、此二通當坊に傳来の旨趣詳ならず、)(新編相模国風土記稿より)
大井三嶋神社所蔵の文化財
- 木像薬師如来坐像(神奈川県指定重要文化財)
- 算額
- 上大井の三嶋神社のムクノキ(かながわの名木100選)
木像薬師如来坐像
この如来像は、かつて大井大明神あるいは大井宮と呼ばれた当社の本地仏として安置されました。
関東では数少ない中央風(京都)の作品であること、また製作後の補修もごく少なく当初の状態をよく保っているということで、県の重要文化財に指定されています。
一、材質等 桧材の寄木造り、玉眼嵌入 肉身部は漆箔
二、法量(仏像の寸法)
像高一一二・八 頭長二八・三 面長二五・五
面幅一九・八 耳張二八・五 肩幅三八・〇
膝張八九・〇 胸厚三一・〇 腹厚三七・〇
膝奥六八・〇 像興七八・〇 台座高四六・〇
光背高一四五・五
三、製作年代 鎌倉時代中期(十三世紀中頃)
※この如来堂は毎月十二日に開帳されます。(大井町教育委員会掲示より)
算額
算額は、神社や仏閣に奉納した数学の絵馬のことで、数学の問題が解けたことを神仏に感謝し、ますます勉学に励むことを祈願して奉納されたものといわれている。
この風習は江戸時代前期頃から始まったものといわれており、問題の解き方は現在使われている洋算方式ではなく、日本人独特の計算方法である和算が使われている。
県内に現存する算額は少なく、大変貴重であり、また、今回発見された算額は、明治15年(1882年)のもので、明治になり洋算が導入された時代の算額としては和算最終期の算額ともいえる。
算額奉納の習慣は日本独自の風習といわれており、本町にも勉強熱心な人がいたことが伺われ、昔の習慣や学術に係る思考の高さについて広く町民に周知し、永く保存したい。(大井町教育委員会掲示より)
大井三嶋神社の周辺図