最明寺。足柄上郡大井町にある東寺真言宗寺院

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最明寺。足柄上郡大井町にある東寺真言宗寺院

最明寺の概要

東寺真言宗寺院の最明寺は、如意山蓮華王院と号します。最明寺は、浄蓮坊源延(寛喜3年1231年寂)が松田町松田庶子の松田山頂に創建、したといいます。建長年間には北條時頼が深く崇敬、堂宇を造立し荘園を寄附、如意山蓮華王院西明寺と命名しています。鎌倉幕府滅亡後は度々戦禍に遭い荒廃、時の住持沙門賢昌は文明元年(1469)当地に移転して中興、慶長2年(1597)頃より寺号を最明寺としています。金子地内をはじめ足柄上郡域に末寺を擁し、12年に一度実施される本尊の居開帳は参詣者で賑わったといいます。

最明寺
最明寺の概要
山号 如意山
院号 蓮華王院
寺号 最明寺
住所 足柄上郡大井町金子3315
宗派 東寺真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



最明寺の縁起

最明寺は、顕教・密教双方に通じた浄蓮坊源延(寛喜3年1231年寂)が松田町松田庶子の松田山頂に創建、信州善光寺を深く崇敬し承久3年(1221)に善光寺本尊を模して、本尊を製作したといいます。建長年間には最明寺入道北條時頼が深く崇敬、堂宇を造立し荘園を寄附、如意山蓮華王院西明寺と命名しています。鎌倉幕府滅亡後は度々戦禍に遭い荒廃、時の住持沙門賢昌(文明15年寂)は文明元年(1469)当地に移転して中興、永禄年間(1558-1570)に入り領主北條左衛門大夫綱成より寺領を保護され、慶長2年(1597)頃より寺号を最明寺としています。金子地内をはじめ足柄上郡域に末寺を擁し、12年に一度実施される本尊の居開帳は参詣者で賑わったといいます。

「大井町史通史編」による最明寺の縁起

如意山蓮華王院最明寺
京都東寺宝菩提院の末寺で古義真言宗の寺院である。金子村円蔵院、東福院、地蔵院、不動院は最明寺の末寺である。承久元年(一二一九)頃、浄蓮上人源延(寛喜三年一二三一没)によって足柄上郡松田村(松田町)山頂に開かれ、文明元年(一四六九)沙門賢昌(文明十五年一四八三没)によって金子の地に移された。天和二年(一六八二)に小田原藩主稲葉正則によって境内二石一斗七升、金子村内に一五石五斗六合、合わせて高一七石六斗七升六合の寺領が与えられた。本堂(間口六間、奥行五間)には一光三尊善光寺弥陀如来(立像、銅造、高一尺五寸)が安置されている。これは信州善光寺を厚く信仰していた開山浄蓮上人源廷が、承久三年(一二二一)、夢中に現れた如来の告げによって、善光寺の如来を模して本尊としたものと伝えられている。本尊のほか、北条時頼によって奉納されたといわれる仏舎利三粒、出山釈迦如来(立像、木造、高一尺三寸)、開山浄蓮上人(坐像、木造、高一尺三寸)、吾妻宮の本地仏である十一面観音(坐像、木造、高八寸五分)、聖天(立像、木造、高八寸)が安置された。宝暦七年(一七五七)に法印秀海の代に再建された客殿(間口四一問、奥行七間一尺五寸)には本尊として不動明王(立像、高二尺七寸五分)と両脇に二童子(立像、木造、高一尺五寸)が安置されており、これらは運慶作と伝えられる。このほか、享保十八年(一七三三)二月に製作された弘法大師(坐像、木造、高二尺)、弘法大師作といわれる毘沙門天(立像、高一尺)、聖徳太子作と伝えられる薬師如来(立像、木造、高一尺)がある。これは北条時頼が信仰していた像といわれ、文政十三年(一八三〇)に江戸新黒門町伊勢屋政兵衛が奉納したものである。恵信僧律(恵心僧都か) 端作といわれる地蔵菩薩(坐像、木造、高一尺)、端慶(湛慶か)作という弁財天(坐像、木造、高一尺五寸)が安置されていた。境内には鐘楼堂、経堂、八幡・天神・稲荷合社、弁天杜があり、門は四足門であった。村内には最明寺持ちの吾妻宮、薬師堂、十王堂があった。(「大井町史通史編」より)

新編相模国風土記稿による最明寺の縁起

(金子村)
最明寺
如意山蓮華王院と號す、古義眞言宗、(京都東寺寶菩提院末、)本尊三尊彌陀(長一尺五寸、脇士各長一尺、共に銅佛、越前法橋海縄作、)を安じ、出山釋迦、(長一尺餘、宋人陳和卿作、往昔經蔵の本尊たりしと云、)十一面觀音(鎮守吾妻權現の本地佛、)を安じ、客殿に佛舎利三粒、(右府實朝が鎌倉圓覺寺に納し佛牙舎利の分身なるを、北條時賴請得て當寺に納しなりと云、)薬師(注記を読む)
不動、(長二尺七寸餘、運慶作、)毘沙門、(長一尺餘、弘法作、)地蔵、(長一尺惠心作、)辨財天、(二臂琵琶を抱、長一尺餘、湛慶作、)及北條時賴の像を置く、寺傳に據るに、開山源延、(注記を読む)
特に彌陀を信敬する事淺からず、信州善光寺に詣する事數度なり、(注記を読む)
承久三年靈夢を感得し、善光寺三尊の彌陀像を模して本尊とす、(注記を読む)
建長年中、北條相模守時賴其佛徳を崇信し、更に堂宇を造立し、荘園を寄附あり、此時山を如意と號し、蓮華王院西明寺と名づく、(所蔵の古文書皆西に作る、慶長二年の物に始て最の字を書す、)應永已後屡々擾乱を歴て、殆頽廢せんとせしを、僧賢昌深く愁ひ、遂に再興の念を發すと雖、松田の地は、山路險隘にして、僻遠なるにより、常に靈地を擇けるに、當所おのづから松田の舊場に似たれば、文明元年、茲に移轉して、再興の志願を遂ぐ、故に賢昌を中興の祖とすと云、(賢昌は、文明十五年十一月廿二日寂す、)【北條役帳】に據れば永禄の始村内にて寺領の地を所務せしと識らる(其證前に注記す、)九年二月、北條左衛門大夫綱成更に寺領寄附の證状を寄す、(注記を読む)
天正三年正月、寺邊の竹木猥りに伐取ものあり、依て禁制の證状を寄す、(注記を読む)
八年三月、寺地の經界を定て寄附あり、(注記を読む)
其後道感寺領の判書を北條氏に請ひし事あり、(注記を読む)
十二年二月、安藤豊前入道良整より、村内東福院への寄附の田畠を更に當寺に寄附す、(注記を読む)
慶長二年六月、領主大久保相模守忠隣境内山林の法制を定め、家臣等連署の掟書を授與す、(注記を読む)
其後領主稲葉美濃守正則に就て、寺領の御朱印を望申すと雖果さず、故に慶安二年十月、正則より一町七段餘の田地所務の状を寄す、(注記を読む)
天和二年七月、稲葉正則更に寺領及び境内地山林竹木寄附の證状を授與あり、(注記を読む)
元禄十年九月、時の領主大久保氏山内の制札を出せり、(注記を読む)
【寺寶】
△五鈷杵一箇
△鈴一口(注記を読む)
△水晶念珠二連(一は北條時賴が所持と云、是は近来江戸下谷黒門町の商家某が寄納せし所なり、一は浄蓮が所持の物と云、)
△柄香爐一柄(西土の製造、僧常暁が遺物と云、)
△北條時賴法躰畫像一幅(道信筆、)
△星曼荼羅一幅(弘法作、)
△弘法自畫像一幅
△不動像一幅(智證筆、)
△菅神像一幅(雪村筆、)
△眞言八祖像各幅(筆者を傳へず、)
△金胎大曼荼羅各幅(唐畫、時代筆者其傳を失す、)
△華嚴經零本(紺紙金泥、美福門院筆、)
△大般若經斷紙二員(紺紙金泥、筆者は足利直義にて、尊氏寄附せしと云、)
△普門品一巻(北條高塒、幼息龜壽丸が菩提の爲寄附せしと云、修補の裡書に、天正十九年辛卯二月廿九日と在、)
△伊勢物語一本(注記を読む)
△往生要集三巻(浄蓮筆、)
△古文書七通(注記を読む)
△八幡天神稲荷合社
△辨天社 寺後の山趾洞中にあり、
△鐘樓 元禄十年再造の鐘を掛、
△經蔵
△四足門(新編相模国風土記稿より)


最明寺の周辺図


参考資料

  • 「大井町史」
  • 新編相模国風土記稿