眞福寺。足柄上郡大井町にある東寺真言宗寺院
眞福寺の概要
東寺真言宗寺院の眞福寺は、浄瑠璃山医王院と号します。眞福寺は、八幡太郎源義家が永保元年(1081)(或いは康和2年1100年とも)曾比(曽比稲荷神社地)に創建、同道していた覚超僧都が開山したといいます。康安年間(1362-1363)に兵火により罹災し、法印定心が至徳2年(1385)当地に中興、寺号を新福寺から眞福寺へと改めています。
山号 | 浄瑠璃山 |
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院号 | 医王院 |
寺号 | 眞福寺 |
住所 | 足柄上郡大井町西大井452 |
宗派 | 東寺真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
眞福寺の縁起
眞福寺は、八幡太郎源義家が永保元年(1081)(或いは康和2年1100年とも)酒匂川対岸の曾比(曽比稲荷神社地)に創建、同道していた覚超僧都が開山したといいます。康安年間(1362-1363)に兵火により罹災し、法印定心が至徳2年(1385)当地に中興、寺号を新福寺から眞福寺へと改めています。
「大井町史通史編」による眞福寺の縁起
浄瑠璃山医王院真福寺
足柄下郡国府津村(小田原市)宝金剛寺の末寺で古義真言宗の寺院である。永保元年八幡太郎源義家が足柄上郡曽比村(小田原市)に草創した。開山は覚超僧都である。康安元年、戦火にあい焼失し廃寺となったが、至徳二年(一三八五)、法印定心(嘉慶元年没)が西大井の地に中興した。天保五年当時の本堂は宝暦十一年(一七六一)、法印現智によって再建されたもので間口八間四尺、奥行六間であった。行基作と伝えられる薬師如来(高二尺二寸五分)が本尊として安置され、この両脇には運慶作とされる日光・月光(立像、木造、高一尺五分)が祀られるほか、十二神(立像、木造、高六寸)、不動尊(立像、木造、高二尺七寸)、弘法大師(坐像、木造、高八寸)、地蔵尊(立像、木造、高一尺七寸)が安置されていた。また境内には観音堂があり、十一面観音が安置されている。村内の稲荷社は真福寺持ちである。(「大井町史通史編」より)
新編相模国風土記稿による眞福寺の縁起
(西大井村)
眞福寺
浄瑠璃山醫王院と號す、古義眞言宗、(足柄下郡國府津村寶金剛寺末、)永保元年(延享三年の書上は、康和二年とす、)八幡太郎義家、曾比村中に草創す、(舊地は彼村内酒匂川の邊、字一丸名と云へる所に在しと云、)開山を覺超と云、康安の年、畠山道誓叛逆の時、兵火の爲に堂塔燒失して廢寺と成しを、至徳三年、僧定心、(嘉慶元年十一月朔日寂す、)今の地に再興す、故に是を中興開山とす、始は新福寺と書せしが、後今の文字に改む、(年代詳ならず、但し所蔵大般若經、至徳中の奥書には、新に作り、天正十五年、北條氏の文書には、今の如く書記す、)天正十五年四月、法談聽聞の輩、狼藉あるべからざる旨、北條氏直の下知を承て、江雲制状を授與せり、(注記を読む)
本尊薬師、(長二尺二寸五分、行基作、)左右に日光月光を安ず、(各長一尺五分、運慶作)
【寺寶】
△大般若經六百巻(注記を読む)
△古文書四通。一は永保元年二月、源義家庄園七町、及び大般若經一部を寄納せし寄附状の寫(註釈省略)、市は應永廿余年、上杉右衛門佐氏憲入道禅透追罰の時、足利持氏祈願の爲、法燈料を寄附せし願書の寫(註釈省略)、一は享徳元年四月、足利成氏より、先規の如く法燈料寄附ある旨、井上浄金が奉書の寫(註釈省略)、其餘一通は前に出せり、
△觀音堂。十一面觀音を安ず、(新編相模国風土記稿より)
眞福寺の周辺図
参考資料
- 「大井町史」
- 新編相模国風土記稿