曽比稲荷神社。小田原市曽比の神社
曽比稲荷神社の概要
曽比稲荷神社は、小田原市曽比にある神社です。曽比稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、永保元年(1081)に開創・康安年間(1361-1362)に兵火により罹災・西大井へ移転した眞福寺の跡地で、寺内に康和年間(1099-1104)奉斎れた社ではないかとも推定されています。曽比郷は、水害で荒廃していたのを剱持宗般が永禄年間(1558-1570)に再墾、宗般寺や地蔵堂を建立していることから、剱持宗般が当社に関与していた可能性が窺えます。江戸期には曽比村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、村内に祀られていた諸社を合祀しています。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命、大山咋命、素戔嗚命、大山祇命、木花咲耶姫命、大日孁命、豊受姫命、水波能売命 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社、浅間社、外疱瘡神等石神像神等十七祠 |
祭日 | 2月初午日 |
住所 | 小田原市曽比407 |
備考 | - |
曽比稲荷神社の由緒
曽比稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、永保元年(1081)に開創・康安年間(1361-1362)に兵火により罹災・西大井へ移転した眞福寺の跡地で、寺内に康和年間(1099-1104)奉斎れた社ではないかとも推定されています。曽比郷は、水害で荒廃していたのを剱持宗般が永禄年間(1558-1570)に再墾、宗般寺や地蔵堂を建立していることから、剱持宗般が当社に関与していた可能性が窺えます。江戸期には曽比村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、村内に祀られていた諸社を合祀しています。
境内掲示による曽比稲荷神社の由緒
曽比稲荷神社は、惣社稲荷略記(大井町真福寺蔵)によると、八幡太郎源義家が、曽比村に草創した真福寺が変じたもののようです。(新編相模國風土記稿真福寺記)
今から約九百年前の康和年間、鎮守府将軍源義家公が、東征の途中、当時の寺主覚超僧都と軍中無事の祈禱をし、日夜仰願したところ、白狐が現われて軍陣の魁をひらき、到る所で戦功をあげました。義家公は、その威徳に感謝し、祭祠と田園を与えられました。その後、村の鎮守の神としても霊妙や神徳が発現され、その威力が四方に聞こえるようになりました。公は菅家に神の賞位を奏上し、「惣社正一位稲荷大明神」の称を賜わりました。
文永十年(一八二七年)、上郡西大井村真福寺の寺主、金剛乗沙門傳持阿闍梨耶実辨が、後代の照鑑として、以上のことを記録しています。
(稲荷神社社伝修復建設委員会掲示より抜粋)(境内掲示(境内掲示より)
新編相模国風土記稿による曽比稲荷神社の由緒
(曾比村)
稲荷社
村の鎮守、村持、下同、
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神明宮二
山神社
水神社
淺間社
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眞福寺蹟
縁起に據に、酒匂川の邊字一丸名にありしと云、今其蹤蹟詳ならず、永保元年此地に草創ありしが、後廢寺となりしを、至徳三年西大井村に移して再建あり、 (新編相模国風土記稿より)
神奈川県神社誌による曽比稲荷神社の由緒
創立年代等詳らかではないが、江戸中期より曽比のお稲荷さんとして初午等には賑わい、曽比村の鎮守として尊崇されていた。また同村には神明宮二社、山神社、山王社、水神社、浅間社等村持社があったが、明治維新後当社に合祀、明治六年上地し、足柄県より村社に列せられた。(「神奈川県神社誌」より)
曽比稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿