日天山宝泉寺。厚木市上依知にある曹洞宗寺院
宝泉寺の概要
曹洞宗寺院の宝泉寺は、日天山松寿院と号します。宝泉寺は、天台宗の小堂として文明18年(1486)に創建、明応4年(1495)に小林平馬の弟・宝泉宗珍和尚が来て一寺としたといいます。江戸期に入り、法地昇格を目指して清源院六世玉山智存和尚を承応3年(1654)開山に迎えて初世としたといいます。
山号 | 日天山 |
---|---|
院号 | 松寿院 |
寺号 | 宝泉寺 |
本尊 | 釈迦牟尼仏像 |
住所 | 厚木市上依知1516 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宝泉寺の縁起
宝泉寺は、天台宗の小堂として文明18年(1486)に創建、明応4年(1495)に小林平馬の弟・宝泉宗珍和尚が来て一寺としたといいます。江戸期に入り、法地昇格を目指して清源院六世玉山智存和尚を承応3年(1654)開山に迎えて初世としたといいます。
境内石碑による宝泉寺の縁起
本堂落慶記念碑
曹洞宗日天山宝泉寺の縁起
宝泉寺は室町時代の後期、文明十八年(一四八六)に起立。
当時は周囲萬木千草地に満ちて裏山は松が繁り昼なお暗く凄然としており、そのため別名「松壽林宝泉寺」ともいわれていた。
現在の地に初めて堂宇を建立したのが、曽我の小林平馬の弟「宗珍和尚」である。師は四十三年間の在住により布教を発展させ今日の基礎を築いた。
その後七世「悟庵珊道和尚」の時(承応三年・一六五四)厚木市三田「曹洞宗・清源院」六世玉山智存大和尚を法地の開山とし、「曹洞宗・宝泉寺」の一世に請したのである。それから今日まで、布教や伽藍・境内・墓地の整備にと檀信徒と共に歩み、十九世「大満悦道大和尚」の時に客殿庫裡を、二十世「大光真道」の時、現本堂のそれぞれ落慶を迎えたのである。(境内石碑より)
厚木市史史料による宝泉寺の縁起
日天山松寿院宝泉寺(上依知下谷戸1516)
宝泉寺は山号を日天山と号し文明十八年(一四八六)に開山す。其頃は天台宗の小堂であったが、土御門天皇の明応四年(一四九五)曾我の産、小林平馬の弟宝泉宗珍和尚来りて一寺を建立す。其後六世輪室存法和尚法地の昇進を志願して承応三年(一六五四)に退院す。其後薫悟庵珊道和尚同年八月に法地昇進免許相成本郡三田村清源院六世玉山智存和尚を当山法地開山に請す。
今本堂は延享二年当山八世石橋津梁和尚の代建立、庫裡玄関衆寮及物置等は安永四年十一月当山提嶽透全和尚の代建立、其内衆寮物置は廃屋となり、総門は文政五年改築、寛文十年鋳造の鍋鐘の掛る鐘楼堂は明治三十六年に再建、(以上宝泉寺記録より)(「厚木市史史料」より)
新編相模国風土記稿による宝泉寺の縁起
(上依智村)寶泉寺
曹洞宗(三田村清源院末)日天山松壽林と號す、本尊釋迦、開山寶泉宗珍(天文十一年三月十五日卒)明應四年建、中興開山玉山智存(慶長十七年八月十日卒、)再中興寶存法(延寶五年十一月二十七日卒)と云、本堂の軒に大鐘を掛、寛文十年鑄造す、
白山社。明應五年勧請すと云、(新編相模国風土記稿より)
宝泉寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「厚木市史史料」