池谷山光福寺。隆寛律師創建
光福寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の光福寺は、池谷山と号します。光福寺は、粟田関白道兼六代の後裔、小納言資隆の三男で天台宗徒隆寛律師(嘉禄3年1227年寂)が浄土宗に改宗、天台宗の反発を受けて陸奥へ流罪となり、毛利庄の領主毛利季光入道西阿が送領使となり移送中、毛利季光入道西阿が入信し隆寛律師を匿い、嘉禄3年(1227年)教念寺と号して創建したといいます。隆寛律師は当地で亡くなり、その後当寺も正福寺と変えて天台宗に改めたものの、天正年間(1573-1593)に僧春海が領主新田日向と謀って浄土真宗に改めて中興、慶安2年(1649)には幕府より寺領19石5斗の御朱印状を受領しています。
山号 | 池谷山 |
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院号 | - |
寺号 | 光福寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 厚木市飯山4501 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
光福寺の縁起
光福寺は、粟田関白道兼六代の後裔、小納言資隆の三男で天台宗徒隆寛律師(嘉禄3年1227年寂)が浄土宗に改宗、天台宗の反発を受けて陸奥へ流罪となり、毛利庄の領主毛利季光入道西阿が送領使となり移送中、毛利季光入道西阿が入信し隆寛律師を匿い、嘉禄3年(1227年)教念寺と号して創建したといいます。隆寛律師は当地で亡くなり、その後当寺も正福寺と変えて天台宗に改めたものの、天正年間(1573-1593)に僧春海が領主新田日向と謀って浄土真宗に改めて中興、慶安2年(1649)には幕府より寺領19石5斗の御朱印状を受領しています。
新編相模国風土記稿による光福寺の縁起
(飯山村)光福寺
池谷山と號す浄土真宗(西六條本願寺末)本尊彌陀(長二尺三寸惠心作)古は浄土宗にて教念寺と號せり、開山隆寛(安貞元年十二月十三日卒す、境内に墓あり)寺傳云、寛は粟田關白道兼五代(按ずるに【諸家大系圖】には六代とす)の後胤、少納言資隆の三男なり、源空に投じて薙髪し後一派を立隆寛派と號す、後世其傳を失へりと、按ずるに寛罪を蒙り安貞元年奥州に謫せらる、時に當所の領主毛利季光入道西阿、送領使たりしに深く寛に歸依し、竊に門弟寛成を代て配所に遣し寛をして當所に在しむ、今年十二年十三日寂を示す、事は【浄土傳燈録】に詳なり(浄土傳燈録引用文省略)後一旦台家に改め寺號を正福と號せしが、天正の頃僧春海(天正十三年三月二日卒、)領主新田日向と謀て今の宗派となし且寺號も改めしと云、慶安二年寺領十九石五斗餘の御朱印を賜ふ、聖徳太子の像一軀(太子自作)を寺寶とす、
塔頭。福泉坊(今廢す)、勤行坊(新編相模国風土記稿より)
厚木市史史料による光福寺の縁起
池谷山光福寺(飯山4501)
当寺は鎌倉時代頃の創立で、古くは教念寺と称し、浄土宗に属した。開山の隆寛律師(嘉禄三年十二月十三日入寂)は粟田関白道兼六代の後裔、小納言資隆の三男で、法然上人の法弟となり、後に一派を立てて、長楽寺派といった。隆寛は天台宗徒であったが法然上人の浄土宗に移り念仏の要義を継承した。叡山の衆徒の反感を受け嘉録三年(一二二七)流罪の刑に処せられた。時に毛利庄の領主毛利季光入道西阿が送領使となり、隆寛を奥州へ送る途路、当毛利庄へ移し、飯山の里に住まわせた。毛利季光入道西阿がこれに帰依し、本寺を開創した。隆寛は当所に住む事四ヶ月余にて入寂した。後に廃たいする。寺号も正福寺となり天台宗に改めるが、天王年間の頃、僧春海の中興により、浄土真宗と改められ寺号も現在の光福寺となった。なお慶安二年徳川氏は寺領として、十九石五斗余の朱印地を寄附する。(「厚木市史史料」より)
光福寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「厚木市史史料」
関連ページ
- 叶山願成寺(喜多方市)
- 配流先で隆寛律師の弟子実成房が創建