願成寺。福島県喜多方市上三宮町にある浄土宗寺院

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叶山願成寺。隆寛律師開山、実成房創建

願成寺の概要

浄土宗寺院の願成寺は、叶山三宝院と号します。願成寺は、浄土宗多念義派の開祖隆寛律師を開山として、その弟子実成房が創建したといいます。隆寛律師は、浄土宗の宗祖法然上人より「選択集」を授与され、天台宗との宗論により奥州へ配流されることになったものの、その護送者だった毛利季光が隆寛律師に帰依(法名西阿)、隆寛律師の弟子実成房を奥州へ配流、隆寛律師入滅(嘉禄3年1227年)後、実成房が遺骨を当地へ持ち帰り当寺を建立したといいます。その後荒廃したものの、保科正之公より白銀を拝領し、寛文5年(1665)行誉霊雲上人が、松原から三宮へ移転の上中興、寛文8年には保科正之公から中村に奉安されていた大佛三尊を拝領しています。

願成寺
願成寺の概要
山号 叶山
院号 三宝院
寺号 願成寺
住所 喜多方市上三宮町上三宮籬山833
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



願成寺の縁起

願成寺は、浄土宗多念義派の開祖隆寛律師を開山として、その弟子実成房が創建したといいます。隆寛律師は、浄土宗の宗祖法然上人より「選択集」を授与され、天台宗との宗論により奥州へ配流されることになったものの、その護送者だった毛利季光が隆寛律師に帰依(法名西阿)、隆寛律師の弟子実成房を奥州へ配流、隆寛律師入滅(嘉禄3年1227年)後、実成房が遺骨を当地へ持ち帰り当寺を建立したといいます。その後荒廃したものの、保科正之公より寺地・白銀を拝領し、寛文5年(1665)行誉霊雲上人が、松原から三宮へ移転の上中興、寛文8年には保科正之公から中村に奉安されていた大佛三尊を拝領しています。

境内石碑による願成寺の縁起

願叶山願成寺縁起
当山は叶山三宝院願成寺と称し嘉禄三年浄土四通のうち多念義派の開祖隆寛律師を開山と仰ぎ実成房の開基なり。隆寛律師は小納言藤原資隆の三男にして幼きより台宗を学びのち浄土宗の元祖法然上人に帰依し選択集を附授せらる。嘉禄三年授は自著顕送状の事に由り台宗の定照にざん訟せられ奥州加納庄に流誦せらる。浄土宗のいわゆる嘉禄の法難なり。領送の武士は大江広元の子従五位蔵人毛利季光にて領送の途次授の遺風を慕ひ、念佛の法門に入り西阿と号す。授は老躯を推して京よりの長き道すがら病を得たるにより、西阿は己が領地相州飯山に留め実成房を配流加納庄に下す。隆寛律師は病重く臨終の時いたり
み名をよぶ声澄む宿に入る月は、雲もかすみもさえはこそあらめ
と辞世して紫雲来迎し飯山にて往生の素懐を遂けらる。時に嘉禄三年十二月十五日法壽八十歳なりき。遺命により実成房は御遺骨を奉し加納庄に下り廟山に葬り松原の地に一宇を建つ。即ち加納山願成寺の創めなり。蒲生氏郷会津入部以来荒廃の事ありしも、寛文五年二十七世中興行誉霊雲上人願成寺を松原の地より三宮の地に移築し山号を叶山と改む。境内の周辺に堤塘を築き界となし、中に本堂山門阿弥陀堂鐘楼庫裡心字池墓地等現在の輪奐を成す。村路生前とし恰も京の街の如し。余沢今に及へり、里人唄って踊る
後生願はく上尊空よ 会津一番後生の寺
法灯連綿七百五十有余年昭和五十三戊午叶山六需三世映誉良徹に至る。
國寶會津大佛
国指定阿弥陀如来観音勢至の二菩薩の三尊にして阿弥陀如来の御身の丈は八尺なり、両脇侍は各々四尺余なり。人呼んて會津大佛と称す。木造寄木玉眼にして鎌倉初期の造像なり。童顔の慈しみ深きお姿は慶派の彫と言へり。両脇侍の跪座は三千院と同じなり。平安の慈相にも表現に一派の強みを加へたる、趣は関東以北に遺存するこの種の造像としては注目すべきものなり。(境内石碑より)


いいお墓

願成寺所蔵の文化財

  • 会津大仏(国指定重要文化財)
  • 旧阿弥陀堂(福島県指定文化財)

境内掲示による願成寺の縁起

願成寺は、嘉禄3(1227)法然上人の高弟・隆寛律師の開山で、その弟子實成の建立。保科正之が会津に入部すると、万治・寛文年間(1658~72)には願成寺周辺の小集落の集村が進み現在の上三宮町に近い形の近世的な村が形成された。寛文5年(1665)には行誉霊雲が会津藩から寺地を請け、本堂は会津藩初代藩主正之公、木造阿弥陀如来及両脇侍像(国指定重要文化財)の移動及び阿弥陀堂は二代正経公、山門は三代正容公の寄進により造営された。(「極上の会津プロジェクト協議会”会津の三十三観音めぐり”ストーリー」掲示より)

願成寺の周辺図


参考資料

関連ページ

  • 池谷山光福寺(厚木市)
    毛利季光西阿が隆寛律師を匿うために建立