龍鳳寺。厚木市小野にある曹洞宗寺院

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祥雲山龍鳳寺。地頭庄左近大夫開基

龍鳳寺の概要

曹洞宗寺院の龍鳳寺は、祥雲山と号します。龍鳳寺は、地頭庄左近大夫某(法名祥雲院華岳宗英居士)が開基となり江戸駒込吉祥寺2世大洲安充(永禄12年1569年寂)を開山として享禄3年(1530)に創建したといいます。小田原北條氏より七貫、庄左近大夫より三貫の寄付を受け、天正19年(1591)には徳川家康より寺領7石の御朱印状を受領していました。明治初年の廃仏毀釈令により基盤を失ったものの再建しています。

龍鳳寺
龍鳳寺の概要
山号 祥雲山
院号 -
寺号 龍鳳寺
本尊 釈迦牟尼仏像
住所 厚木市小野1201
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



龍鳳寺の縁起

龍鳳寺は、地頭庄左近大夫某(法名祥雲院華岳宗英居士)が開基となり江戸駒込吉祥寺2世大洲安充(永禄12年1569年寂)を開山として享禄3年(1530)に創建したといいます。小田原北條氏より七貫、庄左近大夫より三貫の寄付を受け、天正19年(1591)には徳川家康より寺領7石の御朱印状を受領していました。明治初年の廃仏毀釈令により基盤を失ったものの再建しています。

新編相模国風土記稿による龍鳳寺の縁起

(小野村)
龍鳳寺
祥雲山と號す、曹洞宗(江戸駒込吉祥寺末、)本尊釋迦、開山大洲安充(本寺二世永禄十二年五月七日卒、)開基は庄左近大夫某(法名祥雲院華岳宗英居士、卒年を傳へず、境内山中に墓あり、又位牌には夫婦の法名を記す、室は瑞丘院茂林妙繁大姉、按ずるに、下に注記する所蔵の文書に據れば今開山開基と傳ふれども、全く中興なるべく覺ゆ、)なり、小田原北條氏より寺領七貫文を寄附し、天正八年庄左近大夫三貫文の地を加寄せしこと所蔵文書に見ゆ(曰、龍鳳寺御寺領之事、前々從公儀七貫文之所、被爲付候如御判、於拙者少も無相違候、然近年某經衆故、對御寺御物遠罷過、無是非候向後之儀、先祖菩提所之事候間、如前々御寺奉守候、雖少分候、御印判之外、此度改而三貫文、永代奉寄進候、從公儀七貫文、自分に三貫文、合十貫文之所、自今以後有御手作、御寺萬事御赦尤候、爲其父子以連判令啓達候、仍如件、庚辰九月十日、龍鳳寺参庄左近大夫華押、同彌四郎花押、)又十五年寺邊の山及御嶽大戸の二山を同人寄附せしこと是も文書に見えたり(曰、進置山之仕置之事、小野之郷被官百姓小作等、右山へ入妄竹木草剪取事堅令停止候間、道具可被爲相押候、此度任尊意、猶付進置山之事、小作七郎右衛門抱之内三嶽山、此外於大戸萱山已上二ヵ所、改指添進覧、向後堅御仕置、御寺御用可被辨、爲後年父子以判形申定者也、仍如件、天正十五丁亥六月五日、龍鳳寺参、庄左近大夫花押、同彌四郎花押、)十九年寺領七石の御朱印を賜ふ、
神明春日白山合社
石佛。観音彌陀薬師の三軀、覆屋を設く、
鐘鐘跡。鐘は安永七年焼失して再建に及ばず、(新編相模国風土記稿より)

厚木市史史料による龍鳳寺の縁起

祥雲山竜鳳寺(小野1201)
(新編相模国風土記稿同文)(「厚木市史史料」より)


境内掲示による龍鳳寺の縁起

祥雲山龍鳳寺
祥雲山龍鳳寺は曹洞宗江戸駒込の吉祥寺の末寺です。
大洲安充禅師(本寺二世)により享禄三年(一五三〇)開創されました。開基となったのは地頭床左近太夫で境内に墓があります。
床左近太夫は命により、何人といえども境内や山林に入り竹木伐採などをなす者は、軽重にかかわらず罪科に処すべきとの誓令を発し、境内山林の風致を維持し、今日まで幽静な寺院としての景観を伝えています。
豊臣秀吉が太閤検地を始めると、天正十九年(一五九一)には七石の御朱印を賜り、寺領として明治に至るまで隆昌を極めました。しかし明治初年に廃仏毀釈令が発せられると一戸残らず離壇、堂はすべてなくなり、庫裡は小学校として売られました。
明治二十四年になると、第二十五代護三和尚は寺門の復興に努め、丈六の誕生仏を自ら彫刻し、大正年間に完成させました。そのため第二十六代大徹義雄和尚(昭和初期)にかけては、桜花爛漫四月の花まつりに老若男女が訪れ賑わいました。(「厚木らしさの創造推進玉川地区協議会」掲示より)

龍鳳寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 「厚木市史史料」