酒井寅薬師堂。山角伯誉守が願掛・眼病治癒した薬師如来
酒井寅薬師堂の概要
浄土宗寺院の酒井寅薬師堂は、厚木市酒井にある薬師堂です。酒井寅薬師堂は、当地の領主だった山角伯誉守が、眼病に罹患、当薬師如来像に願掛けしたところ治癒できたことから永正15年(1518)に薬師堂を建立、山角家代々の菩提寺となっている法雲寺が管理しています。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | 薬師堂 |
本尊 | 薬師如来像 |
住所 | 厚木市酒井2476 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
酒井寅薬師堂の縁起
酒井寅薬師堂は、当地の領主だった山角伯誉守が、眼病に罹患、当薬師如来像に願掛けしたところ治癒できたことから永正15年(1518)に薬師堂を建立、山角家代々の菩提寺となっている法雲寺が管理しています。
境内掲示による酒井寅薬師堂の縁起
薬師堂(酒井寅薬師)
薬師如来は、正式には薬師瑠璃光如来と申され、除病安楽を祈願して信仰される佛像です。この薬師堂の本尊は平安時代の高僧恵心僧都の御作と言い伝えられておりますが、おそらく南北朝時代(足利尊氏の頃およそ六百五十年前)の作と推定され、この時代の傑作といえる寄木造立像の名品です。現在は秘佛として厨子に納められ十二年に一度寅年に開帳しております。寅年のお開帳は酒井部落挙げて執り行われ、近隣の信者が多数参詣に集まります。特にこの時張られる双盤興は何百年も伝承されている貴重な無形文化財です。
堂内には本尊の他に不動明王(現在は法雲寺本堂に安置)閻魔十王像、奪衣婆なども安置されています。
ある時、山角氏の某が眼病を疾いこの薬師様にお参りしたところ、たちどころに平癒したとの事です。以来山角家はこのお薬師様に篤く帰依し、当主勝長は薬師堂を修復し、法雲寺寺を中興開基して代々の菩提寺と致しました。以後お薬師様の御利益は益々評判となり近郷近在の人々がこぞって参詣したといわれます。(境内掲示より)
新編相模国風土記稿による酒井寅薬師堂の縁起
(酒井村法雲寺内)
薬師堂。惠心作の木像(長二尺八寸)を置、(新編相模国風土記稿より)
厚木市史史料による酒井寅薬師堂の縁起
酒井寅薬師堂(酒井2488)
古老の説に依れば、昔高僧恵心全国行脚の途事この酒井村に悪疫病発生流行し住民難渋しおり、相模川は氾濫し流木多数ありたる由、僧は此の難民を救済せんと志しその流木の中の良質なるを選み、躬ら薬師像を刻し祈願すれば忽ちにして、悪病退散せり云々。現在は酒井宿と新宿の部落で共同管理をじており、毎年七月下旬にかど念仏とおこもりが安互に行なわれ、毎月の八日、十二日を命日として鉦を叩き御念仏を唱う。又寅薬師御開帳に就て(青木豊治謹記)左に記す。
薬師如来は全国に多く寅年に(十三年目毎)御開扉するのが通例の様である。
酒井に奉安してある当薬師如来について縁起を当住職にきいたところ「当薬師如来は時の高僧恵心僧都の御作にして淵源は永正十五年当時の領主山角伯誉守の発願により諸病平癒の霊場として諸人の信仰を集め春夏秋冬五百有余年今日に至るまで霊験あらたかにして薬師如来に詣ずることにより諸病退散家門繁栄福寿円満の利益等慈光照益疑いなき霊仏たり」と。そこで薬師様とはどう云う仏様かに就て通俗的に説明しよう。この仏は医王薬師如来と申し衆生のために法を説くこと病苦に応じ施薬するが如しというので「仏如医王法如良薬」証する事が出来るのである。唯薬王と云えば仏中の医王で薬師様の事である。丁度大師様と云えば弘法、御祖師様と云えば日蓮、を指す如く医王は薬師にとらると云いたくなる。薬師様は詳くは薬師瑠璃光如来と申し仏様の仲間では大医王仏と申し我々人間はお薬師様と尊敬する。全国で有名のお薬師様は比叡山延暦寺の根本中堂、奈良の薬師寺、京都の鮪薬師、出雲の畑薬師、三河の鳳来寺(ラジオで仏法僧を聞く)の薬師、越後の米山の薬師近くは日向の薬師は良く知られている。
山角伯耆守は小田原北条家の譜代の重臣で代々豪勇を以て知られ、小田原落城の際もその子孫の山角軍は山王原口を守り徳川四天王の榊原井伊軍共が何度攻めても反撃し、大敗させたと小田原戦史に輝いている。山角伯者守は領地が酒井にあり今の殿原(とんばら)に隠居所を建て、たまたま眼病になりこの薬師を信仰したところ霊験あらたかにしてたちまち平癒、爾後信仰厚く供養のため薬師の寺領を寄進され、そして叉菩提寺として法雲寺を建立された。小田原落城後は徳川将軍の下に旗本衆に遇されて明治維新まで武人としての家名を保ち又小田原藩大久保公の藩士にもなり今なお小田原市には山角町という名を残している。(「厚木市史史料」より)
酒井寅薬師堂の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「厚木市史史料」