長谷川山浄久寺。海老名市門沢橋にある浄土宗寺院
浄久寺の概要
浄土宗寺院の浄久寺は、長谷川山隆祟院と号します。浄久寺は、然誉知全(元和3年1617年寂)が開山となり創建、寛永2年(1625)に門沢橋村を領有した旗本の長谷川正成が当寺を菩提寺と定め、その子長谷川筑後守政氏(法名長清院空譽浄久・寛永15年1638年没)が開基したといいます。幕末まで当地を領有した長谷川家の歴代の宝篋印塔や、長谷川正成が寄進した平安時代後期作の木造阿弥陀如来坐像は海老名市重要文化財に指定されています。
山号 | 長谷川山 |
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院号 | 隆祟院 |
寺号 | 浄久寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 海老名市門沢橋3873 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
浄久寺の縁起
浄久寺は、然誉知全(元和3年1617年寂)が開山となり創建、寛永2年(1625)に門沢橋村を領有した旗本の長谷川正成が当寺を菩提寺と定め、その子長谷川筑後守政氏(法名長清院空譽浄久・寛永15年1638年没)が開基したといいます。
新編相模国風土記稿による浄久寺の縁起
(門澤橋村)浄久寺
長谷川山隆祟院と號す、浄土宗増上寺末、本尊彌陀長一尺七寸春日作、開山然誉知全元和三年二月十九日卒、開基長谷川筑後守政氏法謚、長清院空譽浄久、寛永十五年九月二日卒、(新編相模国風土記稿より)
浄久寺所蔵の文化財
- 浄久寺木造阿弥陀如来坐像(海老名市指定重要文化財)
- 浄久寺長谷川家石造宝篋印塔(海老名市指定重要文化財)
浄久寺木造阿弥陀如来坐像
この木造阿弥陀如来坐像は、浄久寺の本尊として長谷川正成が寄進したものと伝わる仏像です。
平成七年(一九九五)の海老名市史編さん仏像調査により平安時代後期(一二世紀)の定朝様の仏像であることが初めて明らかになりました。
像高は五十二・二センチで割矧ぎ割首造、眼には後補の玉眼が入っていますが、元は彫眼と考えられています。丸く穏やかな面相、ゆったりとした体、浅く整えられた衣表現など平安時代後期に興隆した定朝様式の特徴がよくでています。一部後世に補修されているものの海老名市内で確認されているものとしては最古の仏像であることから市指定文化財となりました。(海老名市教育委員会掲示より)
浄久寺長谷川家石造宝篋印塔
寛永二年(一六二五)に幕府旗本の長谷川正成が門沢橋村を所領地として与えられたことから、浄久寺が長谷川家の菩提寺となりました。以来、幕末まで長谷川家代々の当主とその家族が葬られて、墓塔として宝篋印塔が建立されてきました。
台座に被葬者の没年代と法名・俗名が刻まれており、長谷川正成威光、正岱まで八人の当主とその家族が葬られたことがわかります。
別の寺院に葬られた記録のある人の名前や、複数の名前が刻まれたものがあること、長谷川正成が門沢橋村を所領地とする以前に亡くなった人の名前も見受けられることから改装等の際に建立された宝篋印塔もあると考えられています。
宝篋印塔は、江戸時代に幕府旗本の墓塔としてよく用いられ、江戸時代中期(十七世紀)には盛んに造られました。このため、数基単位で建立されている例はよくありますが、大形のものを中心に十五基もの宝篋印塔が建立されている例はあまり多くありません。
また、市内でこれだけの数の宝篋印塔が現存しているのは浄久寺だけであることから市指定文化財となりました。(海老名市教育委員会掲示より)
浄久寺の周辺図