東光山国分寺。海老名市国分南にある高野山真言宗寺院

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東光山国分寺。相模国国分寺として建立

国分寺の概要

高野山真言宗寺院の国分寺は、東光山医王院と号します。国分寺は、聖武天皇の勅願により天平年間(724-749)各国に建立された国分寺(金光明四天王護國之寺)の一つで、相模国の国分寺として天平9年(732)に創建、火災焼失や地震倒壊に遭いながらも再建され、神仏の信仰篤い源頼朝からも読経を命ぜられていました。その後戦乱により堂塔焼失、薬師堂を当地に移して法燈を維持、徳川家康の関東入国に際して天正19年(1591)薬師堂領として寺領2石の御朱印状を受領しています。当寺の梵鐘は海老名季賴が正応5年(1292)に寄進したもので、国重要文化財に指定されています。

国分寺
国分寺の概要
山号 東光山
院号 医王院
寺号 国分寺
本尊 薬師如来像
住所 海老名市国分南1-25-38
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



国分寺の縁起

国分寺は、聖武天皇の勅願により天平年間(724-749)各国に建立された国分寺(金光明四天王護國之寺)の一つで、相模国の国分寺として天平9年(732)に創建、火災焼失や地震倒壊に遭いながらも再建され、神仏の信仰篤い源頼朝からも読経を命ぜられていました。その後戦乱により堂塔焼失、薬師堂を当地に移して法燈を維持、徳川家康の関東入国に際して天正19年(1591)薬師堂領として寺領2石の御朱印状を受領しています。

新編相模国風土記稿による国分寺の縁起

(國分村)
國分寺
東光山醫王院と號す、古義眞言宗(河原口村總持院末)本尊薬師(木の立像、長五尺六寸五分、背後に行基作と彫と云、古色にして今見るべからず、)前立の左右に日光月光二像及十二神を置く(長三尺餘、運慶の作と云、)又行基菩薩及聖徳太子の二像あり(元經蔵に安ぜしと云)客殿には弘法大師及不動地蔵の像を安ず、天正十八年小田原陣の時、豊太閤の制札を蔵す(地名に相模國東郡之内こくぼ村國分仁寺と記す)翌十九年十一月薬師堂領二石の御朱印を賜ふ、此時葵御紋を許給ひしとて當時の住僧の書あり(定天正十九辛卯十一月、御紋附来候間、末世迄住職之僧可被心得候條如件、元和三年四月日、東光山末資國分寺方丈別當融賢花押、)抑國分寺は天平九年聖武天皇各國に御建立ありし勅願所なり
(【聖武紀】曰、天平九年三月丁丑、詔曰毎國令造釋迦佛像一軀、挟侍菩薩二軀、兼寫大般若經一部、按ずるに、【元享釋書】此記を引是國分寺之權興也と載、)
十三年正月田地を國分寺に施入し、丈六像を造るの料に充らる
(【聖武紀】曰、十三年正月丁酉。故太政大臣藤原朝臣家、返上食封五千戸、二千戸依舊返賜其家三千戸、施入諸國國分寺、以充造丈六佛像之料、)
三月國分僧尼寺の封戸、僧徒の定額を立僧寺を名けて金光明四天王護國之寺となし、尼寺を法華滅罪之寺とせらる
(奈良時代の記述長文のため中略)
源平戰争の後右大将賴朝總追捕使の職に居り、文治二年五月國分寺修理の企あり
(【東鑑】曰、五月二十九日、神社佛寺興行事、二品日本思召立由、且所被申京都也、且於東海道者、仰守護人等、被注其國總社幷國分寺破壊及同尼寺顛倒事、是重被經奏聞、随事體爲被加修造也、按ずるに、此文に據ても當時僧寺已に破壊し尼寺正に廢さんとするの形勢を見るに足れり、)
建久三年五月八日、後白河法皇御追福の爲に鎌倉勝長壽院にて百僧供あり、當寺の僧徒三人其選に充つ
(五月八日、法皇四十九日御佛事、於南御堂被修之、有百僧供、僧衆中國分寺三口)
八月右府誕生の時平産の爲に當寺に於て誦經の事を命ぜらる
(八月九日、御臺所御産氣、相模國神社佛寺、奉神馬被修誦經、國分寺一宮下、按ずるに、佛寺十五所の一なり、此地一宮寒川神社を距る事一理餘、然るを在所を一宮下を記するもの解すべからず、)
五年十一月堂塔修理の命あり
(十一月二十七日、近國一宮幷國分寺、可修復破壊之旨、被仰下、)
寛喜三年四月世變祈禱の爲、諸國國分寺にて讀經すべきの詔ありしをもて五月其旨を當寺に傳へらる
(四月十九日爲祈風雨水旱災難、於諸國國分寺可轉讀最勝王經之旨、宣旨状去夜到着、五月五日、任綸旨、於國寺可分轉讀最勝王經之由、被仰下于關東御分國國行然奉行之、)
是より以後文献の徴すべきものなく、世下り星移り戰國に至り、堂塔以下兵革の殃に罹り、今の所謂國分寺は古昔寺域南邊の一堂にして十一を千百に存するのみ、伽藍の礎石今相去こと二町許にあり
(礎石の大さ六七尺、田畝の間に散在す、)
又尼寺の廢蹟は、礎石より七町許を隔つ、
(其廣方三町〇按ずるに當寺に掛る正應五年鐘銘の序に、國分尼寺槌鐘と鐫る、是に據ば尼寺の遺跡の如く見うれど、別に廢跡あれば、尼寺廢絶の後にこゝに移し掛しにや、又豊太閤の制札には、國分仁寺と記す、仁は尼字の誤と云説あれば、此頃一旦尼寺となりしにや、未正據を得ざれば其詳なることは知るべからず)
△鐘樓。鐘は鎌倉執権政治の時、源季賴寄附す(鐘徑二尺三寸五分、高さ龍頭共四尺五寸五分、)
大日本國相州國分尼寺槌鐘
大檀那源季賴
夫以當寺者、維聖武皇帝之御願、醫王善逝之聖跡也、鐘磐者、亦佛閣住持之莊厳、魔界降伏之形聲歟、爰逸韻絶而茲久、樓臺荒而陽積乏縁之跂之、伽藍繁昌子孫泰平焉、乃至法界平等利益無邊而巳、
正應五年歳次丙辰十月六日
平氏女
源氏女
源季之
大工大和權守物部國光作
一聴鐘聲 當願衆生 脱三界苦 得證菩提
按ずるに、源季賴が事、寺傳も失ひ、呼名も亦傳へず、然るに近郷に海老名あり、源平合戦の間、海老名源八季貞、當國の住人として著名なり、季賴季久皆季の字を以て名付る時は、海老名氏の末派なること論なし、
△經蔵。聖徳太子及傳大士の像を安ず(輪蔵を設置のみにて經文は亡失せり)
△老槻樹二。共に囘り二丈餘、(新編相模国風土記稿より)


国分寺所蔵の文化財

  • 国分寺梵鐘(国指定重要文化財)

国分寺の周辺図