藤沢白旗神社。源義経公を合せ祀る社
藤沢白旗神社の概要
藤沢白旗神社は、藤沢市藤沢にある神社です。藤沢白旗神社の創建年代等は不詳ながら、相模国一ノ宮寒川神社を勧請して創建、建久9年(1198)には荘厳寺の住僧覚憲が別当となっていたといいます。源義経の首実験が行われ当地に葬られたことから、宝治3年(1249)に源義経公を合せ祀るようになったといいます。宝暦2年(1752)には社殿を再建、し旧坂戸町総鎮守となり白旗神社と称するようになったといいます。
社号 | 白旗神社 |
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祭神 | 寒川比古命、源義経公 |
相殿 | - |
境内社 | 秋葉神社、稲荷神社、大鳥神社、金刀比羅神社、厳島神社、天満宮 |
祭日 | 例大祭7月21日 |
住所 | 藤沢市藤沢2-4-7 |
備考 | - |
藤沢白旗神社の由緒
藤沢白旗神社の創建年代等は不詳ながら、相模国一ノ宮寒川神社を勧請して創建、建久9年(1198)には荘厳寺の住僧覚憲が別当となっていたといいます。源義経の首実験が行われ当地に葬られたことから、宝治3年(1249)に源義経公を合せ祀るようになったといいます。宝暦2年(1752)には社殿を再建、し旧坂戸町総鎮守となり白旗神社と称するようになったといいます。
新編相模国風土記稿による藤沢白旗神社の由緒
(坂戸町)(宿内三箇町の一なり)
白旗明神社
社を龜形山と呼ぶ、文治五年廷尉義經奥州にて敗死し、其首級實檢の後此地に埋め、其靈を祀りて當所の鎮守とせしと云ふ、義經の首級腰越にて實檢ありし事、【東鑑】に見えたり、
(曰文治五年六月十三日、泰衡使者新田冠者高平、持参豫州首於腰越、言上事由仍爲實檢、遣和田太郎義盛・梶原平三郎景時等、於彼所、件首納黒漆柩、浸美酒、高平僕從二人荷擔之、)例祭六月十五日、當社及八王子権現の神輿を假殿に移し、同二十一日迄神事ありて同日歸座す、又九月二十八日にも神事あり、荘厳寺持、下同じ、
末社。稲荷二、辨天
首濯井。境外にあり、義經の首を濯し處と云ふ、(新編相模国風土記稿より)
神奈川県神社誌による藤沢白旗神社の由緒
往昔、相模国一ノ宮・寒川神社を勧請。建久九年(一一九八)に荘厳寺の住僧・覚憲が別当となる。
文治五年(一一八九)、源義経は奥州にて敗死したが、その首は黒漆櫃に納められ、美酒に浸されて持ち運ばれ、腰越の里にて和国太郎義盛、梶原平三景時、甲直垂を着げ甲胃の郎従二十騎を従えて首実験をなし、この地に葬った。以上の事から宝治三年(一二四九)九月に義経公を合せ祀るようになる。社前領家町に首塚、首洗井がある。
享保三年(一七一八)紀州公の姫君が参勤交代の時に、この陣屋に於て急に腹痛を起こし、大神に祈願した所、忽ちのうちに全癒したので木杯一個、紋章幕、高張を奉納した。
享保四年(一七一九)十二月二十一日、正一位階を受く。宝暦二年(一七五二)には社殿を再建し旧坂戸町総鎮守となり白旗神社と称した。文政三年(一八二〇)二月八日、火災に罹り社殿及び古書類等を焼失したが、文政十一年(一八二八)六月より天保六年(一八三五)十二月に亘って社殿を再建し現在に至る。(神奈川県神社誌より)
藤沢白旗神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 神奈川県神社誌