寒川神社。寒川町宮山の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

寒川神社。雄略天皇の代に奉幣、延喜式神名帳所載の名神大社、国幣中社、相模国一の宮

寒川神社の概要

寒川神社は、寒川町宮山にある神社です。寒川神社の創建年代等は不詳ながら、雄略天皇の代(四五六~四七九)には奉幣を受けており、その当時には当地の名社として知られていたといいます。承和13年(846)には従5位下の神階を授与され(その後正四位下まで昇進)、延喜式神名帳には相模国の名神大社と記載される相模国の大社です。源頼朝や小田原北条氏歴代の崇敬を受け、徳川家康の関東入国に際しては社領100石の御朱印状を天正19年(1591)に授けられています。明治維新後の明治4年には国幣中社に列格、相模国一の宮で神奈川県随一の神社です。

寒川神社
寒川神社の概要
社号 寒川神社
祭神 寒川比古命、寒川比女命
相殿 -
境内社 宮山神社
祭日 例大祭9月19日・20日、国府祭5月5日、浜降祭7月15日
住所 寒川町宮山3916
備考 国幣中社



寒川神社の由緒

寒川神社の創建年代等は不詳ながら、雄略天皇の代(四五六~四七九)には奉幣を受けており、その当時には当地の名社として知られていたといいます。承和13年(846)には従5位下の神階を授与され(その後正四位下まで昇進)、延喜式神名帳には相模国の名神大社と記載される相模国の大社です。源頼朝や小田原北条氏歴代の崇敬を受け、徳川家康の関東入国に際しては社領100石の御朱印状を天正19年(1591)に授けられています。明治維新後の明治4年には国幣中社に列格していました。

境内掲示による寒川神社の由緒

当神社の創始は古く日本総国風土記によれば今より約千六百年前雄略天皇の御代に奉幣されたことが記されており当時より朝野遠近の崇敬篤く著名の大社であったことが知られる。
其後桓武天皇の延暦七年を始めとして歴代奉幣のことがあり亦仁明天皇承和十三年以来数次に亘り神階を奉納授せられ更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳に相模国の名神大社と定められ幣帛を奉せられておりこの地方の庶民信仰の中心をなしていた
後世源頼朝 小田原北條氏累代 社殿造営社領の寄進等あり武田信玄の信仰も特に篤く徳川時代に至っては徳川氏社殿再建のこと亦社領の寄進等古来武門武将の崇敬は鄭重をきわめるものがあった
明治四年三月官国幣社制度の制定せられるや国幣中社に列せられ国費を以て幣帛料奉納あらせられたるも昭和二十年十二月神道指令により神社の国家管理を廃しされ現在は神社本庁の別表神社として全国崇敬者より御神徳を敬仰されている(境内掲示より)

新編相模国風土記稿による寒川神社の由緒

(宮山村)寒川神社
社地二萬千四百五十九坪なり、幣殿・拝殿あり、【神名帳】に載る所當國の大社にして今も一宮と號す、 (注釈を読む)
社傳に祭神は應神天皇なり、鎮座の年代は貞観十一年十一月十九日と云へど、是神位を授けられし年月を誤りしなり
其證下の出す、又一宮巡詣記には神龜四丁卯年の鎮座、或は天平神護元乙已年とも、承和元甲寅年十一月十日再興など記して一定せず、
承和十三年九月從五位下を授らる (注釈を読む)
斎衡元年三月從四位下 (注釈を読む)
貞観十一年十一月從四位 (注釈を読む)
元慶八年九月正四位下に進らる (注釈を読む)
壽永元年八月頼朝の嫡男誕生の時、當社へも奉幣の使を立られ、神馬以下寄納せらる (注釈を読む) 其後建久三年八月右府延生の時も例によりて奉幣あり、 (注釈を読む)
同五年十一月社頭修理の事あり (注釈を読む)
建保二年十月にも奉幣使を立らる、 (注釈を読む)
寶治元年八月怪異によりて使を立られ、奉納等の事あり、 (注釈を読む)
其後大永二年九月北條氏綱願主として社頭再興あり (注釈を読む)
天文十五年三月左京大夫氏康も再興せり (注釈を読む)
其頃北條氏より社領として二十七貫文の地を寄附せらる (注釈を読む)
御入國の後天正十九年十一月社領百石の御朱印を下さる、例祭五月五日當國諸所に散在せる五社 (注釈を読む)
の神輿を淘綾郡國府六所宮社地神揃山に集會し神事あり
【神寶】
兜一頭
武田信玄着領の物と云ふ、鉢及鉢附板の三存し、餘は損失す、總て黒漆鉢の内に天照太神宮八幡大菩薩春日大明神と三行に彫り、下に房宗華押あり、又一方には天文六年丁酉三月とあり、其餘に般若心經全部を彫れり、
本地堂
護摩堂
供所
鍾樓、文化十一年再鑄の鐘を掛く、
随神門
末社、稲荷山王 日月天 辨天二
別當薬王寺。寒川山醫王院と號す、古義眞言宗(岡田村安楽寺末)承和元年十一月弘便造立す、本地地蔵を安ず(運慶作)相傳て往古は、本寺安楽寺當社別當職たりしを云ふ、
供僧神照寺 三員の一なり、開山弘譽寛文三年三月造立す、本尊如意輪観音を安ず。
同西善員 本尊彌陀を置く。
同三大坊 本尊は十一面観音なり、
神主金子伊豫守 藤原氏なり、天正年中より世々采女と稱す、寶永四年采女重次免許を得伊豫守と改む、今其四代の孫なり。(新編相模国風土記稿より)

神奈川県神社誌による寒川神社の由緒

創建の年代は不詳であるが、『総國風土記』に雄略天皇の御代(四五六~四七九)に奉幣が奉納せられたと記されているので、当時既に当地方の名社として知られていたことが窺われ、創建の極めて古いこと、朝野の崇敬が篤かったことは明らかであり、以後、延暦七年(七八八)五月をはじめとして御歴代の奉幣・勅祭が行われたことは枚挙にいとまがない。
承和十三年(八四六)以来数次にわたり神階の奉授があり、更に醍醐天皇の御代に制定された『延喜式』では、相模国内唯一の国幣の大社と定められ、特に名神祭にも預る名神大社に列せられた。一千数百年の昔から相模国の一ノ宮、総鎮守として士民信仰の中心となり、源頼朝、北条義時、同・重時等しばしば社参、神宝を奉納し、小田原北条氏も累代、社殿の造営及び修復を行ない、社領の寄進等怠りなく、武田信玄の信仰も殊のほか篤かった。後年、徳川氏もまた代々社殿を再建、社領を奉るなど武家の崇敬、奉祀も鄭重を極めた。わけても、古来より唯一の八方除の守護神として遠近に知られ、地相、家相、方位等に由来するすべての悪事災難を除かせ給う御神威を慕って、巷間に根強い信仰をもっている。明治四年五月、国幣中社に列格せられた。神社本庁別表神社。(神奈川県神社誌より)


寒川神社所蔵の文化財

  • 本殿および拝殿天井龍の絵図(寒川町重要文化財)

寒川神社の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 神奈川県神社誌