広川八幡神社。鎌倉権五郎景政崇敬の社
広川八幡神社の概要
広川八幡神社は、平塚市広川にある神社です。広川八幡神社の創建年代等は不詳ながら、平安末期より八幡宮と称して祀られ、五領ヶ台を居城としていた鎌倉権五郎景政も当社を崇敬していたと「吾妻鏡」に記載されています。鶴岡八幡宮創立時より、米の献上を続けてきたものの、滞納などもあり、暦応2年(1339)には鶴岡八幡宮の神領とされた時期もあったといいます。広川村の鎮守として崇敬され、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格していました。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別命 |
相殿 | - |
境内社 | 八雲社、鎌倉権五郎社、荒神社、牛頭天王社 |
祭日 | 例祭日4月第一土曜日 |
住所 | 平塚市広川618 |
備考 | - |
広川八幡神社の由緒
広川八幡神社の創建年代等は不詳ながら、平安末期より八幡宮と称して祀られ、五領ヶ台を居城としていた鎌倉権五郎景政も当社を崇敬していたと「吾妻鏡」に記載されています。鶴岡八幡宮創立時より、米の献上を続けてきたものの、滞納などもあり、暦応2年(1339)には鶴岡八幡宮の神領とされた時期もあったといいます。広川村の鎮守として崇敬され、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格していました。
境内掲示による広川八幡神社の由緒
広川八幡神社の由緒
八幡神社の創立は不詳だが、平安末期より八幡宮と称し広川村の鎮守として崇敬されてきた。ご神体二体(高さ三寸の座像並びに六寸の立像)及び石三顆と言われる三個の石が祀られている。
鎌倉の鶴岡八幡宮創立時より献米を続け、後年未達(滞納)弁償の下知があり、暦応二年(一三三九年)将軍足利尊氏が同八幡宮の神領に寄進した。五領ヶ谷に居城があったとされる鎌倉権五郎景政は当宮を尊崇した。権五郎の守護仏・阿弥陀如来像は恵心作で、その厨子の裏書に「古来本尊八幡宮本地仏鎌倉権五郎景政公本尊、天正六年三月厨子台座等再興」とあり、明治初年の廃仏毀釈で善福寺に移されたと思われる。
かつて八幡さんの祭りは三月二十八日であったが、明治六年にそれまでの八幡宮を八幡神社と改称して、四月一日となり、その後四月第一土曜日となる。昭和四十五年社務所(現自治会館)を広川の県道沿いに建設した。
境内に四つの祠がある、右から八雲社(大正九年)、鎌倉権五郎社(天保九年)、牛頭天王社(明治十九年)、荒神社といわれる。
御影石でできた鳥居は大正七年に建立されたが、十二年九月の大地震で上部が落下し、鉄骨を入れて補修されたが、老朽化が進み危険なので平成二十年に新しく建て替えられた。
鐘つき堂は神社北側の善福寺があったと想定される場所にあったが、昭和になって境内南端に移された。梵鐘は貞享二年(一六八五年)の作であったが、太平洋戦争で供出させられた。
エコミュージアム金目まるごと博物館(境内掲示より)
新編相模国風土記稿による広川八幡神社の由緒
(廣川村)
八幡宮
村の鎮守とす、神躰二軀(一は座像、長三寸、一は立像、長六寸、)及石三顆を置、例祭三月廿八日、本地佛彌陀(惠心作、長一尺二寸、)は鎌倉權五郎景政の守護佛と云(厨子の裏書に、古来本尊八幡宮、本地佛、鎌倉權五郎景政公守本尊、天正六戊寅年三月、厨子臺坐等再興とあり、善福寺に安ず、)善福寺持、
△鐘樓。貞享二年の鑄鐘を掛、(新編相模国風土記稿より)
神奈川県神社誌による広川八幡神社の由緒
創立年代不詳だが、平安末期より八幡宮と称し、広川村の鎮守として崇敬された。神体は二軀、(一は座像、高さ三寸、一は立像、高さ六寸)及び石三顆を置く。鎌倉鶴岡八幡宮創立時より献米を続け、後年未進(滞納)弁償の下知あり、暦応二年将軍尊氏同八幡宮の神領に充てる。鎌倉権五郎景政当宮北方五領ヶ台に居城があって当宮を尊崇した(吾妻鏡)。天正六年(一五七八)三月本地仏弥陀恵心作は鎌倉権五郎の守護仏で、厨子の裏書に『古来本尊八幡宮本地仏鎌倉権五郎景政公守本尊天正六年三月厨子台座等再興』とあり、善福寺に安置したが後、分寺した。当時の例祭日は三月二十八日だったが明治六年四月一日に八幡神社と改称、その日を例祭日にし村社に列す(中部郡勢誌)、昭和四十八年、社務所を広川の中央に建設し、氏子民の信仰と集いの場として成果をあげている。(神奈川県神社誌より)
広川八幡神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 神奈川県神社誌