金目山光明寺。平塚市南金目にある天台宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

金目山光明寺。坂東三十三所第7番

光明寺の概要

天台宗寺院の光明寺は、金目山寶樹院と号します。光明寺は、大宝2年(702)小磯の浜で海人が觀音の小像を感得して尊崇、数年後に僧道儀が海人の宅地を道場として創建したと伝えられます。天平年間(729-749)に行基菩薩が觀音像を彫刻し、小磯の浜で揚がった観音像を胎内像として納めたとされ、永延2年(988)には花山法皇の勅により坂東三十三所第7番に定められ、治承7年(1183)には源頼朝の祈願所とされた他、足利尊氏も当寺に祈祷を命じていました。慶安2年(1649)には江戸幕府より観音堂領3石、境内9石、都合12石の御朱印状を受領しています。遠近問わず信仰を集め、また数多くの文化財を所蔵しています。

光明寺
光明寺の概要
山号 金目山
院号 寶樹院
寺号 光明寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 平塚市南金目896
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



光明寺の縁起

光明寺は、大宝2年(702)小磯の浜で海人が觀音の小像を感得して尊崇、数年後に僧道儀が海人の宅地を道場として創建したと伝えられます。天平年間(729-749)に行基菩薩が觀音像を彫刻し、小磯の浜で揚がった観音像を胎内像として納めたとされ、永延2年(988)には花山法皇の勅により坂東三十三所第7番に定められ、治承7年(1183)には源頼朝の祈願所とされた他、足利尊氏も当寺に祈祷を命じていました。慶安2年(1649)には江戸幕府より観音堂領3石、境内9石、都合12石の御朱印状を受領しています。遠近問わず信仰を集め、また数多くの文化財を所蔵、木造聖観音立像とその厨子は国重要文化財に指定されています。

新編相模国風土記稿による光明寺の縁起

(南金目村)
金目觀音堂
本尊聖觀音(行基作、長五尺九寸、)にて金像(長七寸)を腹籠とす、前立の像(長三尺五寸、運慶作、下皆同作なり、)あり、傍に六觀音(各長二尺、下同、)三十三觀音等を安置す、又辨天の像あり(古は別に社ありしが破壊せし故、爰に安ず、縁起に村内猪股氏の建る所と記す、)
縁起(寶永七年松平豊後守宗俊の家臣、田副太右衛門秀典の記す所、)に據るに、大寶二年小磯(淘綾郡の屬)の濱にして、海人觀音の小像を感得して尊敬す(注釈)
天平年中僧行基聖觀音の像を彫刻し、彼海人の得たる小像を胎中に蔵む(曰、天平年中行基菩薩、刻彫觀音像因以彼烏蜑戸拾得之像、蔵其腹中、自此威徳益盛、)永延二年花山法皇勅して、坂東三十三所順禮第七番と定め給ふ(曰、永延二年春、花山法皇、行幸關東、拝之大感此靈驗、勅爲坂東三十三所、順禮第七番)承安中、源賴朝堂宇を修造す、(注釈)
治承七年賴朝觀音の像を寄附し、且祈願所と定しより、鎌倉将軍世々の祈願所たりしと云(曰、治承七年、賴朝公賜一箇尊天下泰平之祈願所、然後将軍相繼祟尊専託祈願、)
壽永二年五月、賴朝僧源信を別當職に補任す (別當光明寺所蔵文書曰、補任金目觀音堂別當職事、大法師源信、右人爲令地行寺務、所補任如件、故下、治承七年五月二十日、前左兵衛佐源朝臣華押、治承七年は壽永二年に當る、)
延元元年十二月斯波陸奥守家長境内及寺領中、地頭等の私綺を停止す(注釈文省略)
文和四年五月、源尊氏祈禱を命ぜり(曰、天下靜謐祈禱事、近日殊可被致精誠之状如件、文和四年五月二日、光明寺長老、尊氏の華押あり、)
康應元年三月鎌倉浄光明寺、當寺領を押領するに依て雑掌善勝と云者、訴状を捧ぐ(注釈文省略)
明徳元年三月浄光明寺より當寺領を狼藉し、且寺中亂妨に及ぶを以て四月再訴状を呈す(注釈文省略)
六月又訴ふ(注釈文省略)
應永年中境内聖天供、及長日祈禱の巻數を足利満兼に呈す(曰、於光明寺、聖天供三七ヶ日、幷長日祈禱巻數給候御懇祈之至、殊萬悦候、恐々謹言、二月十一日寶戒寺長老満兼華押、)其後兵亂に依て、久しく衰微せしが、元和に至て漸く舊に復す(縁起曰、應永年中、干戈頻起、寺社頽敗、雖然靈驗累現、元和之初、至泰平以来、祠廟隆盛如舊)其後洪水の爲、堂宇頽敗せしを、元禄十年住僧慶賀再建せり(注釈文省略)
慶安二年八月堂領三石、及境内九石の御朱印を賜ふ、毎年七月縁日(十八日なり、近村の童子等集て、相撲を興行せしが、近き頃廢せり、南北金目兩村の民は、此日祭禮と稱し、鎮守に等しく尊敬す、)には参詣の者群集せり、又十二月十五日境内に市を立、歳首の用具を鬻げり
△大鐘。二王門中に掛、正平七年の鑄鐘なり(銘曰、相模國金目郷光明寺鐘、正平七年壬辰二月日、當住持沙門空忍、願主法願智國、幷結縁大工河内權守清原國吉、)
△潮權現社。觀音の像を感得せし、海人を祀り(觀音縁起曰、追尊鳥蜑戸、稱潮大權現、爲之建祠、以爲當寺護法善神、)其常に潮を汲し桶(伊阿僅に底の板のみ存せり、圓径一尺一寸)を神躰とす、當社を鎮守とする村民廿四軒あり、例祭九月九日、神明稲荷を合祀す、
△聖天社。神躰は聖徳太子作と云(長七寸)嘉慶二年八月足利氏満供所地として、坂間郷の内を寄進す(別當寺所蔵文書曰、寄進光明寺、相模國坂間郷内供所地事、右四季爲聖天供料、所寄附之状如件、嘉慶二年八月二十八日、左兵衛督源朝臣華押、)應永年中聖天供の巻數を、足利満兼に献ず(證上に見えたり、)
△阿彌陀堂。本尊は運慶作(長二尺)傍に聖觀音(同作、長二尺八寸)を安ず、
△札堂。聖觀音を置、
△二王門。二王(長各九寸、)は運慶作なり、額に金目山と書せり、
△別當光明寺。金目山寶樹院と號す、天台宗(鎌倉寶戒寺末、)開山道儀(大寶二年十月五日卒、)壽永二年五月源賴朝、僧源信を當寺住持とせし事所蔵文書に見ゆ(其文前に註す、)中興開山慶賀(正徳二年十二月五日卒、)本尊彌陀、傍に三尊彌陀(名が六寸五分、觀音像長二寸五分、勢至四寸、共に惠心作、)地蔵(弘法作、長三尺七寸、)愛染(慈覺作、長二寸、尊氏の歸依佛と云、)十一面觀音(賴朝寄附の像、縁起に載る所是なり)等を安ず、古文書十通を蔵す、(新編相模国風土記稿より)


光明寺所蔵の文化財

  • 光明寺本堂内厨子一基附木造聖観音立像一軀(国指定重要文化財)
  • 銅鐘一口(神奈川県指定重要文化財)
  • 光明寺観音堂一棟(神奈川県指定重要文化財)
  • 木造観音三十三応現身立像三十三軀(平塚市指定重要文化財)
  • 木造聖観音菩薩立像一軀(平塚市指定重要文化財)
  • 古文書二巻(十通)(平塚市指定重要文化財)
  • 縁起書一巻(平塚市指定重要文化財)
  • 二王門一棟(平塚市指定重要文化財)
  • 木造金剛力士立像二軀(神奈川県指定重要文化財)

光明寺本堂内厨子一基附木造聖観音立像一軀

本尊聖観音菩薩立像(平塚市指定重要文化財)を安置する一間厨子です。
様式は典型的な禅宗様で、斗栱も大きく、配置がゆったりしたすぐれたもので、軒の扇垂木手法も古い要素を伝えています。
現在前立となっています附の聖観音立像の胎内銘により、明応七年(一四九八)の造立と考えられています。
昭和四十三年の修理で、屋根や欄間等が創建当初の姿となっています。(神奈川県教育委員会・平塚市教育委員会掲示より)

銅鐘一口

銘文(陰刻)
相模国」金目郷」光明寺鐘」正平七年壬辰二月日」當住持沙門空忍」
願主法賴智国並結縁」大工河内権守清原国吉」
総体にやや小振りの鐘え、龍頭は扁平なつくりで、鋳上りのよい、造形的にも整っている鐘であり、南北朝鐘の特徴をよくあらわしている。
現在観音堂内陣に保管されています。(神奈川県教育委員会・平塚市教育委員会掲示より)

光明寺観音堂一棟

桁行五間、梁間六間、杮葺形銅板葺。明応七年(一四九八)の建立。
光明寺は、かつては金目観音堂の別当坊であったが、現在は宗教法人光明寺として観音堂受持となっています。
この観音堂は、昭和五十八年から三年間に渡って行われた半解体修理の結果、元禄大修理の実態と、明応建立時の原形がほぼ判明しました。
この観音堂は、本格的密教本堂形式で、一般の中世密教本堂に比べて異例なほど外陣の閉鎖性が著しく、内陣は当初後面が三間とも板壁で、低く幅の広い輪様仏壇を設けていることなどが特色で、十五世紀末相模の各方面の情勢が反映している建物と思われます。(神奈川県教育委員会・平塚市教育委員会掲示より)

木造観音三十三応現身立像三十三軀

観音経(法華経普門品)によれば、観世音菩薩は教を説く相手や場所に応じ、三十三身の姿に変化するといい、それを三十三応現身と呼びます。
本寺の像は、簡潔かつ素朴な作風が認められ、衣や甲冑の彫りは浅めです。相好は全体に穏和で、やや不均衡な尊体ながら、抑えた動きが特徴的です。
造立は室町時代初期と推測されます。童女身像の底部に明応七年(一四九八)の彩色銘がありますが、建立時の銘えはなく、修理時のものと考えられます。(平塚市教育委員会掲示より)

木造聖観音菩薩立像一軀

金目観音堂の本尊で、厨子の中に安置され、六十年に一度、寅年に開帳されます。
本像は一見して藤原期(十二世紀頃)の観音像にしばしば見受けられる形姿をした地方作の素朴な作風を持つ像です。しかし、その構造においては、頭部がケヤキ材・躰部がカヤ材と、材質が異なる寄木造りです。
本像の台座は後補ですが、裏面には明応二年(一四九三)の修理銘と、実に一一〇余名もの名がびっしりと書かれ、当時この地方の広範な階層の人々の護持があったことを示す貴重な史料です。(平塚市教育委員会掲示より)

古文書二巻(十通)

光明寺に伝わる古文書は十通ですが、南北朝時代にまとまって残っている点と内容がある程度まで一貫した筋をたどることができる点で、貴重な史料です。(平塚市教育委員会掲示より)

縁起書一巻

宝永七年(一七一〇)、遠江国浜松城主松平豊後守宗俊の臣・田副太右衛門尉秀典が筆記奉納した巻子本。この縁起書は、金目観音堂光明寺伝としてまとまっている唯一のもので、珍しい史料です。(平塚市教育委員会掲示より)

二王門一棟

三間一戸。八脚門。入母屋造。杮葺形銅板葺。面積三三・二九一㎡
桁行七・八四四m。梁間四・二四二m。軒高三・九五四m。
棟高七・三六三m。
昭和六十二年に行った解体修理の際、斗栱部分から元禄十一年(一六九八)修理の墨書が多数発見され、元禄期に観音堂にひき続き修理が施されたことが判明しました。
その際、解体部材の一部に元禄期より古い物があることがわかり、その形態から室町末期(十六世紀中頃)のものと推定されました。
金目観音の一大修改築が行われた明応年間、この二王門は観音堂の作事方法から一時仮上家となっていたものと考えられ、四十年程経て現在残る古材による二王門が建立されたものと思われます。(平塚市教育委員会掲示より)

光明寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿