萬種山天徳寺。眞田與一義忠公を祀る与一堂
天徳寺の概要
曹洞宗寺院の天徳寺は、萬種山と号します。天徳寺は、小田原北條氏の家臣鈴木隼人某(天正2年1574年卒、勝嶺長全)が義翁盛訓禅師(天正14年1586年寂)に帰依し、寺地を寄進して開山、その後真田城跡の当地へ移転したといいます。義翁盛訓禅師は真田城主だった眞田與一義忠公(治承4年1180年石橋山の合戦で討死)を、真田明神と祀り、天徳寺國華長運と追謚して菩提を弔ったといいます。慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領11石の御朱印状を受領していました。明治5年には小学郁文堂(後に真田学校)が当寺本堂を校舎として開校しています。
山号 | 萬種山 |
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院号 | - |
寺号 | 天徳寺 |
本尊 | 釈迦牟尼仏像 |
住所 | 平塚市真田1-14-1 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
天徳寺の縁起
天徳寺は、小田原北條氏の家臣鈴木隼人某(天正2年1574年卒、勝嶺長全)が義翁盛訓禅師(天正14年1586年寂)に帰依し、寺地を寄進して開山、その後真田城跡の当地へ移転したといいます。義翁盛訓禅師は真田城主だった眞田與一義忠公(治承4年1180年石橋山の合戦で討死)を、真田明神と祀り、天徳寺國華長運と追謚して菩提を弔ったといいます。慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領11石の御朱印状を受領していました。明治5年には小学郁文堂(後に真田学校)が当寺本堂を校舎として開校しています。
新編相模国風土記稿による天徳寺の縁起
(眞田村)
天徳寺
萬種山と號す、曹洞宗(下總國々府台總寧寺末、)本尊如意輪觀音、傍に彌陀を置(惠心作、長二尺)明和六年、當寺の傳燈を録せしものあり、是に據るに、當寺は天徳元年美濃國關縣鑄物屋庄に創建す(開山の名を失ふ、)其後堂舎傾頽せしを應永中、江州太守六角源氏賴(法謚慈恩寺雪江祟永)修補を加へ、在仲宗看(寛正二年七月十四日卒)を請て始祖とす、五世學仲周が時濃の兵亂を避て、遠州掛川に移り、乗安寺を開創す、七世義翁盛訓の時、掛川亦擾亂に依て當所(字東堂坂)に来ち住す、時に北條氏の臣鈴木隼人某、義翁を歸重し眞田義忠の城蹟を寺地として造立し(按ずるに、古城蹟を寺地とせしは、古検地の時住僧の願に依て替賜りしなり、其年代定かならざれど、天正文禄兩度の内なるべしと土人云り、)義忠の靈を眞田明神と祀り、又天徳寺國華長運と追謚せりと云、故に義翁(天正十四年五月六日卒)を中興開山鈴木隼人(天正二年六月廿日死、勝嶺長全と謚す、子孫あり、舊家條に載す、)を中興開基とす、慶安元年八月寺領十一石の御朱印を賜ひ、且境内制札を賜へり、眞田義忠の木像を置(甲冑像長二尺、)位牌鬼籍簿に、義忠が郎黨二人の法名を載す(一は智勝院保得鐵心、事象四庚子、八月廿三日、陶山文三事、今に子孫あり、一は義勝院一夢是迄、治承四庚子、八月廿三日、腰巻文六事とあり、按ずるに、城蹟の北に腰巻と云字あり、)
△鐘樓。鐘は寛永六年の鑄造なり、銘(銘末に助成檀那、市川隠岐守信忠、上野和泉權守信友、齋藤伊豫守直吉とあり、其子孫今村民たり、舊家條に載す、)あり、
△白山社。天神稲荷合祀す、
△眞田與一義忠墓碑。高二尺三寸方六寸、表に損館天徳寺眞田吏君、國華長運大居士神祇、左に治承四庚子、八月廿三日夜、於石橋山卒、裏に桓武天皇之後胤、鎮守府将軍國香十代、眞田與市義忠之墓と彫れり(按ずるに、義忠が墳墓は足柄下郡石橋村にあり、其條に詳載す、)(新編相模国風土記稿より)
境内掲示による天徳寺の縁起
眞田城址と天徳寺の由来
眞田與一義忠公は、三浦義継の四男岡崎城主、岡崎四郎義実の嫡子であり、その居城が眞田城である。
治承四年(一一八〇年)八月二十三日夜、源頼朝伊豆挙兵の折り石橋山にて俣野五郎の家臣長尾新五・新六のために討ち死に。二十五才であった。一説に義忠公このと木、痰が咽につまり討たれたことにより、喘息・痰咳の神(眞田明神)として崇められている。
後、天正年間岐阜天徳寺七世義翁盛訓禅師義忠公の菩提を弔うため天徳寺を造立する。(眞田與一神輿保存會掲示より)
天徳寺所蔵の文化財
- 真田学校跡の碑
真田学校跡の碑
明治の初年、当地方には大住郡南金目村に郁文堂という私塾があった。
明治五年(一八七二)学制が発布されると、真田村天徳寺の本堂を校舎として、足柄県第一大学区第二十九中学区第四十四番小学郁文堂が開校した。同七・八年頃、天徳寺境内に校舎が新設され、同十年、真田学校と改称された。
明治十二年十月、真田・矢名・金目の三学校に分離した。同十九年、三校の高等科が真田学校に併置された。
明治二十二年、町村制施行により中郡大根村が誕生し、真田・矢名の二校は同二十五年に合併し、尋常大根小学校となった。
近代日本の黎明期、この地にあった真田学校は、平塚市立金目小学校・秦野市立大根小学校・伊勢原市立比々多小学校の源流として、初等教育機関としての役目を果たし、幾多の俊英を世に輩出した。(平塚市観光協会掲示より)
天徳寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿