総寧寺|曹洞宗関東僧録、市川市国府台にある曹洞宗寺院

猫の足あとによる千葉県寺社案内

安国山総寧寺|曹洞宗関東僧録、東三十三所観音霊場

総寧寺の概要

曹洞宗寺院の総寧寺は、安国山と号します。総寧寺は、近江国観音寺の城主佐々木氏頼により、永徳3年(1383)通幻禅師を開山として近江国(滋賀県坂田郡近江町)に創建、天正3年(1575)千葉県関宿へ移転、寺領20石を北条氏政より受領したといいます。寛文3年(1663)当地に移転、江戸幕府より寺領128石5斗余の御朱印状を拝領したといいます。江戸時代には下野大中寺・越生龍穏寺とともに全国の曹洞宗寺院を統括する「関三刹」の一つに任ぜられ、末寺3000余寺を擁していたといいます。東三十三所観音霊場17番です。

総寧寺
総寧寺の概要
山号 安国山
院号 -
寺号 総寧寺
住所 市川市国府台3-10-1
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



総寧寺の縁起

総寧寺は、近江国観音寺の城主佐々木氏頼により、永徳3年(1383)通幻禅師を開山として近江国(滋賀県坂田郡近江町)に創建、天正3年(1575)千葉県関宿へ移転、寺領20石を北条氏政より受領したといいます。寛文3年(1663)当地に移転、江戸幕府より寺領128石5斗余の御朱印状を拝領したといいます。江戸時代には下野大中寺・越生龍穏寺とともに全国の曹洞宗寺院を統括する「関三刹」の一つに任ぜられ、末寺3000余寺を擁していたといいます。

市川市教育委員会掲示による総寧寺の縁起

総寧寺はもと、近江国観音寺の城主佐々木氏頼により、永徳3年(1383)通幻禅師を開山として、近江国左槻庄樫原郷(滋賀県坂田郡近江町)に建立された曹洞宗の寺院であった。
ところが、天正3年(1575)に至って、小田原城主北条氏政が、寺領20石を与えて下総国関宿に移した。
その後、関宿の地はしばしば水害を被ったため、寛文3年(1663)遂に徳川4代将軍家綱に願って国府台に移った。その折幕府は寺領として128石5斗余、山林67000余坪を与えている。
総寧寺は古くから一宗の僧録に任ぜられていたが、徳川家康が天下を掌握すると宗門の統一支配の面から、総寧寺の住職に全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、一宗の大僧録に任じたのである。しかも歴代住職は十万石大名の格式を以って遇せられ、江戸小石川には邸が与えられた。総寧寺の格式の高さは今日に残る下馬石によっても分かる。
明治5年(1872)学制の施行によって、第一大学区の大学校舎を総寧寺境内に建設することになったが、それは後、陸軍用地となり、昭和33年現在の里見公園となった。
本寺の境内には、関宿より移された小笠原政信夫妻の供養塔である二基の五輪塔、小川稽古斎碑をはじめ、国府台合戦の伝説にまつわる夜泣石等を存する。(市川市教育委員会掲示より)

「市川市内の寺院明細帳」による総寧寺の縁起

寛文三癸卯年徳川三代将軍家光公関宿細代地ヨリ賜替地國府臺村廿三世中興一閑和尚代創立之明治十年六月文部省大学校御用地ニ付此地ヘ移転。(「市川市内の寺院明細帳」より)

「稿本千葉県誌」による総寧寺の縁起

安国山総寧寺
同郡(東葛飾郡)同町(市川町)国府臺字西櫻陣に在り、境内二千四百五十一坪、曹洞宗総持寺(能登國)の末派にして中本寺たり。寺傳に云ふ、もと近江國馬場にありて永徳三年佐々木氏頼の創建なりしが、天正三年本州関宿に移轉す、後屢水害に罹れるを以て寛文三年八月また此の地に遷せりと。徳川氏の時寺領百二十八石五斗餘を寄附す、嘉永年中火災に罹り堂宇焼失し文久年間再建す、末寺三千餘寺あり。寺に石の下馬札あり、佐々木氏頼の輿へたるものなりと云、又小笠原左衛門佐の墓あり。(「稿本千葉県誌」より)


総寧寺所蔵の文化財

  • 小笠原政信夫妻供養塔(市指定文化財)

総寧寺の周辺図


参考資料

  • 「市川市内の寺院明細帳」
  • 「稿本千葉県誌」