見光山大念寺。四之宮人形吉田朝右衛門の墓所
大念寺の概要
浄土宗寺院の大念寺は、見光山眼性院と号します。大念寺は、佐藤文左衛門(玉法院深譽西入、寛永4年1627年卒)が開基となり、源譽哲道(明暦3年1657年寂)が開山したといいます。当寺は、四之宮人形発展に尽した吉田朝右衛門、吉田三十郎・ワカ夫婦の墓所となっています。
山号 | 見光山 |
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院号 | 眼性院 |
寺号 | 大念寺 |
本尊 | 大日如来坐像 |
住所 | 平塚市四之宮5-3-36 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
大念寺の縁起
大念寺は、佐藤文左衛門(玉法院深譽西入、寛永4年1627年卒)が開基となり、地頭伊丹播磨守康勝、大久保與一郎忠廣、服部兵吉が寺地を寄進し創建、源譽哲道(明暦3年1657年寂)が開山したといいます。
新編相模国風土記稿による大念寺の縁起
(四ノ宮村)
大念寺
見光山眼性院と號す、浄土宗(芝増上寺末、)開山源譽哲道(明暦三年十一月四日卒、)開基玉法院深譽西入(俗稱佐藤文左衛門、寛永四年十一月四日死す、子孫村民にあり、)本尊彌陀(定朝窄、長二尺五寸、)當寺地は古地頭伊丹播磨守康勝、大久保與一郎忠廣、服部兵吉等の寄附する所なり、(所蔵文書曰、相州四之宮村、大念寺屋鋪之儀、大久保與一郎殿、服部兵吉殿、寄進候間、我等知行分之内も、畑二段令寄進候、恐々謹言、七月廿一日、大念寺、伊丹播磨守康勝華押、按ずるに、此文書、寛永中の物なるべし、康勝の示寂せしは、寛永の初めなればなり、)
神明天神稲荷合社
彌陀堂(新編相模国風土記稿より)
大念寺所蔵の文化財
- 四之宮人形師匠墓所
四之宮人形師匠墓所
江戸時代中期、庶民の娯楽として浄瑠璃と人形芝居が流行し、相模川流域にも多くの芝居の座がありました。この四之宮にも四之宮人形あるいは四之宮人形連中と呼ばれる座が結成され、前鳥神社の奉納行事として芝居を行いました。昭和初期には活動が中断しましたが、昭和三二年(一九五七年)に新たに「前鳥座」の座名を冠して、活動が再開されました。
四之宮人形芝居の発展では、吉田朝右衛門が第一人者として大きな功績を残しました。彼は、安政三年頃(一八五六年頃)に師匠として四之宮に迎えられ、明治一六年(一八八三年)三月に八九歳で没するまで、四之宮をはじめ、相模川流域の各地で、全生涯にわたり弟子の指導を行いました。
また、吉田朝右衛門のほか、吉田三十郎、ワカ夫婦も四之宮に定住し、師匠として人形の遣い方を指導する傍ら、人形のカシラの修理なども行い、四之宮人形芝居の伝承のために尽力した人物として称えられています。ここ大念寺には、吉田朝右衛門の墓石・墓誌とともに、吉田三十郎・ワカ夫婦の墓石も並んで建てられています。(平塚市掲示より)
大念寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿