祥雲山妙楽寺。足利左馬頭基氏開基
妙楽寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の妙楽寺は、祥雲山と号します。妙楽寺は、足利左馬頭基氏(貞治6年1367年卒、泉院玉岩昕公大禅定門)を開基として、義堂周信(嘉慶2年1388年寂)が開山、応永11年(1404)には足利左兵衛督満兼の祈願所とされ、徳川家康の関東入国後には寺領10石の御朱印を文禄3年(1595)に受領していました。当寺の閻魔王像は、文禄4年(1595)の造像とされ、平塚市重要文化財に指定されています。
山号 | 祥雲山 |
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院号 | - |
寺号 | 妙楽寺 |
本尊 | 千手觀音像 |
住所 | 平塚市田村5-13 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
妙楽寺の縁起
妙楽寺は、足利左馬頭基氏(貞治6年1367年卒、泉院玉岩昕公大禅定門)を開基として、義堂周信(嘉慶2年1388年寂)が開山、応永11年(1404)には足利左兵衛督満兼の祈願所とされ、徳川家康の関東入国後には寺領10石の御朱印を文禄3年(1595)に受領していました。
新編相模国風土記稿による妙楽寺の縁起
(田村)
妙楽寺
祥雲山と號す(中門に三半を扁す、明人周閨禄筆)、臨済宗(鎌倉建長寺末)、本尊千手觀音、開山義堂周信(嘉慶二年四月四日卒)開基足利左馬頭基氏(貞治六年四月廿二日卒、泉院玉岩昕公大禅定門と謚す、)なり、應永十一年十一月、足利左兵衛督満兼、祈願所となす(所蔵文書曰、相州田村郷妙楽寺事、可爲祈願所之状如件、應永十一年十一月一日、當寺長老、左兵衛督花押、)、寺領十石の御朱印は、文禄三年二月賜れり、往古鐘樓ありしが、天文十九年、洪水に流失し、今に再建せずと云、
【寺寶】
古文書四通(一は觀應二年十二月、足利尊氏より、塔婆料所の事、嚴密に沙汰すべき由、兵部少輔某への下知状、一は足利満兼の文書、其文前に註す、一は應永十五年二月、常香免寄進の状にて、實名華押宛所あれど、詳に讀難し、一は天正小田原陣の時、太閤秀吉、當村へ出せし制札なり、此内當寺に預りし證なき物は藝文部に載す、)
天神稲荷合社
閻魔堂。堂地村内にあり、今假に爰に移す、
松樹。庭前にあり(圍九尺六寸許)ゆるぎの松(一枝を動かせば、一木悉く動くと云)又珠數懸松と呼ぶ、(當寺十一世、惟山が時、七度祝融に罹る、或時異相の人来て火防の珠數なりとて、此松に懸たり、依て名づくと云、惟山は寛文中卒す、)
池。西隅にあり、鐘ヶ池と呼ぶ、片葉の葦生せり、(新編相模国風土記稿より)
妙楽寺所蔵の文化財
- 木造閻魔王坐像一軀(平塚市指定重要文化財)
木造閻魔王坐像一軀
現在は妙楽寺に安置されている。『新編相模国風土記稿』には当寺の閻魔堂が村内にあったことがみえ、本像はこの本尊であったとみられる。
閻魔王は冥界の支配者で、初七日から三年まで順次、死者の生前の罪を裁く十王の中心を成す。
本像は、頭部が大きく作られ、面貌は眉眼をつり上げ怒号する、かなり誇張した表現につくられている。体部はずんぐりとした体形で、量感があり迫力が充分であるが、左右の袖先は小ぶりで、衣文も強い表現ではなく、全体に頭部に比し穏やかにまとめられている。彫技は本格的とはいえ、作者の高い技量がうかがわれる。室町時代の像にみるような量感に富む体形と、近世紀のやや誇張の勝った面貌表現を合わせ持つ作風とみることが出来よう。等身を超す大法量の本格的造顕で、作風にも中世彫刻の余風を遺す優れた作例である。閻魔王像の基準作例として、本市のみならず県内においても希少な存在といえる。
構造は、頭・体部を前後に矧ぎ、別に脚部などを剥ぎ寄せる。現状、持物(笏)、冠飾を亡失し、両袖先、裳先などの欠失部がある。像表面は、後補とみられる彩色仕上げが残る。
像底からみえる体幹部前材下側に墨書があり、このなかに文禄四年(一五九五)の年紀と、佛士(師)長芸の名があり、造像年代・作者ともに判明する。(平塚市教育委員会掲示より)
妙楽寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿