建長寺。臨済宗建長寺派大本山、鎌倉五山の第一、鎌倉三十三観音霊場
建長寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の建長寺は、巨福山建長興国禅寺と号します。建長5年(1253)、北条時頼が開基、大覚禅師(蘭渓道隆)を開山として創建しました。日本初の禅寺で、臨済宗の中心寺院として興隆、臨済宗建長寺派の大本山・鎌倉五山の第一として、多くの塔頭・末寺を擁しています。鎌倉五山の第一位、鎌倉三十三観音霊場28番、鎌倉二十四地蔵霊場9番、10番、11番です。
山号 | 巨福山 |
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院号 | - |
寺号 | 建長興国禅寺 |
本尊 | 地蔵菩薩 |
住所 | 鎌倉市山ノ内8 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 臨済宗建長寺派大本山、鎌倉五山の第一、鎌倉三十三観音霊場28番、鎌倉二十四地蔵霊場9番、10番、11番鎌倉学園併設、坐禅会 |
建長寺の境内
建長寺の境内は広大で、建長寺案内掲示では、「寺内拝観約30分・半僧坊まで歩いて徒歩約15分」とありますが、龍王殿内を見学したり、半僧坊・地蔵尊上の勝上けん山展望台を見学すると約半日ほど要するものと思われます。なお建長寺境内総てが国史跡となっています。
建長寺総門
建長寺は今から750年前、鎌倉時代、建長5年(1253)、禅によって国の興隆をはかるため、執権北条時頼公の発願により、中国の禅僧・大覚禅師(蘭渓道隆)を開山として創建された、日本で最初の純禅の大道場です。
建築は、総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に連なる中国の禅宗様式にもとづいています。
今の総門は、江戸時代、天明3年(1783)に京都・般舟三昧院で建立されたものを昭和15年に移築しました。額「巨福山」(大きな福をもたらす寺)は、中国僧、一山一寧(一山国師)禅師(建長寺第十世)の筆です。(境内掲示より)
三門(国重要文化財)
三解脱門の略。空・無相・無作を表しこの三門をくぐることによってあらゆる執着から解き放たれることを意味します。
開山様の言葉に「福山は揮て松関を掩じず無限の清風来たりて未だ已まず」とあり、建長寺はあらゆる人々(修行者)に門を開放している事を表しています。
楼上には、五百羅漢(修行を完成された人)を安置しています。
この建物は江戸時代・安永4年(1775)万拙碩誼和尚などの努力によって再建されました。創建当初は三門後方左右に大坐禅堂、大食堂がありました。(境内掲示より)
仏殿(国重要文化財)
建長寺の本尊・地蔵菩薩を安置。北条時頼公と開山大覚禅師(蘭渓道隆)の衆生済度の願いが込められています。
毎月1日・15日の祝聖、23・24日の開山例月忌、釈迦三仏忌、開山忌などの法要がここで行われます。
現在の建物は、創建当初より四代目のものといい、東京芝増上寺にあった徳川二代将軍秀忠公夫人(お江の方、家光の母)の霊屋(みたまや)を建長寺が譲り受けました。仏殿前の庭園の柏槙は開山禅師のお手植え、古木は樹齢750年です。(境内掲示より)
法堂(国重要文化財)
”はっとう”と読みます。昔は、建長寺全体が修行道場であり、僧侶全員がこの法堂に集まって、住持の上堂説法を聞き、修行の眼目としました。388人の僧侶がいた記録があります。現在の道場は、開山堂のある西来庵に移っています。
この建物は江戸時代・文化11年(1814)に再建されたものです。関東最大の法堂で、現在は千手観音を本尊としています。天井の雲龍図は創建750年を記念して、小泉淳作画伯によって描かれました。(境内掲示より)
釈迦苦行像
釈迦苦行像は、法堂に安置してある釈迦像で、パキスタンより寄贈された佛像です。
釈迦苦行像は、お釈迦様が極限の苦行・禁欲(断食)を行っているお姿を現したもので、顔に髭を生やした姿はきわめて稀であるとともに、徹底的に肉体を痛めつけるような荒行をしていたことを表しています。
この釈迦苦行像は、パキスタンの北西部地方のガンダーラ文明の遺産でラホール中央博物館に安置されているお像をもとに製作され、2005年愛知万博に陳列されたのち、この度パキスタン国より建長寺に寄贈されました。(境内掲示より)
庭園(国史跡)
蘸碧池を中心とする庭園は開山大覚禅師(蘭渓道隆)の作庭。創建当時よりあります。寺院の池は寺の前にあるのが普通ですが、建長寺は最奥に位置します。この池のまわりには当初、得月楼・大客殿・方丈などがあり、檀那や貴賓の応接に用いられました。創建750年を記念して平成15年に大改修をして現在に至っています。
右側の総二階の建物は得月楼と称し、創建750年を記念して平成14年に建設されたものです。
蘸碧池とは、緑の木々の色が青い水にひたって輝いていることを表しています。(境内掲示より)
梵鐘(国宝)
この鐘は、北条時頼公の発願により広く施主をつのり、開山大覚禅師(蘭渓道隆)の銘文、関東鋳物師の筆頭である物部重光によって建長7年(1255)に鋳造されました。銘文の中に「建長禅寺」とあります。
左奥は、西来庵。開山大覚禅師を祀る塔頭。現在は建長寺派専門道場を兼ね、雲水の修行道場です。(境内掲示より)
半僧坊大権現
境内奥の山の中腹に、建長寺の鎮守・半僧坊大権現が祀られています。明治23年(1890)に、第二百三十五世住職零黄道が静岡県奥山方広寺より勧請したもので、霊験あらたかで参詣者が絶えません。毎年正月、5月、9月に大祭祈商会を行っています。
ここからは鎌倉市内、相模湾や富士山も眺望できる絶景の地です。(建長寺栞より)
西来庵
西来庵は、建長寺開山蘭渓道隆(大覚禅師)の塔所で、蘭渓道隆(大覚禅師)が示寂した弘安元年(1278)の直後に創建したと伝えられます。境内は、昭堂、開山堂、食堂(本堂)、大徹堂(坐禅堂、修行道場)からなり、昭堂と、開山堂背後の蘭渓墓は国重要文化財に指定されています。修行道場として使用されているため拝観はできません。
大覚禅師が中国より伝えた純粋で厳しい禅風は、現在も綿々と受け継がれ、日夜厳しい修行が行われています。(建長寺栞より)
建長寺の塔頭寺院
建長寺の塔頭寺院は、建長寺(巨福山)内に8ヶ寺(西来庵以外は独立した宗教法人)、境外に4ヶ寺あります。
建長寺の縁起
建長寺は、建長5年(1253)、北条時頼が開基、大覚禅師(蘭渓道隆)を開山として創建しました。日本初の禅寺で、臨済宗の中心寺院として興隆、臨済宗建長寺派の大本山・鎌倉五山の第一として、多くの塔頭・末寺を擁しています。
建長寺栞による建長寺の縁起
建長寺は巨福山建長興国禅寺といい、鎌倉五山の第一位、臨済宗建長寺派の大本山です。今から約760年前建長5年(1253)にノ鎌倉幕府五代執権北条時頼(1227~1263)が建立したわが国最初の禅寺です。
建長寺の開山(創始者)蘭渓道隆は、中国の高僧無明慧性に学び、寛元4年(1246)33歳で来日し、九州、京都を経た後、鎌倉に入り北条時頼に請われて建長寺に迎えられました。蘭渓道隆は、中国宋時代の純粋で厳しい禅をそのまま導入し、建長寺を天下の禅林として多くの僧を集め、中国文化の受容、勉学の場として、一時は千人を超える修行僧を指導しました。その教えは現在国宝として寺に残る「法語規則」に見ることが出来ます。
「鞭影を見て後に行くは即ち良馬に非らず、訓辞を待て志着発するは実に好僧に非らず~」(法語規則)
蘭渓道隆はその後、京都の建仁寺、甲斐の東光寺等にも移り、弘安元年(1278)に再び建長寺へ帰り、66歳で亡くなり、後宇多天皇より大覚禅師という禅師号を賜りました。これは日本で最初の禅師号です。尚、「建長汁」は建長寺発祥の料理です。
北条時頼は、建長寺を建立し、大覚禅師や、第二世住職兀菴普寧に師事し、禅の教えに深く帰依しました。また、時の権力者として経済的にも建長寺を支え、全国的に禅宗を広め、自らも出家して法名を覚了房道崇と名乗りました。(建長寺栞より)
建長寺所蔵の文化財
- 絹本淡彩蘭渓道隆像(国宝)
- 大覚禅師墨蹟法語規則(国宝)
- 梵鐘(国宝)
- 山門(重要文化財)
- 仏殿(重要文化財)
- 法堂(重要文化財)
- 昭堂(重要文化財)
- 唐門(重要文化財)
- 大覚禅師塔(石造無縫塔)(重要文化財)
- 絹本著色釈迦三尊像(重要文化財)
- 絹本著色十六羅漢像8幅(重要文化財)
- 絹本著色大覚禅師像(重要文化財)
- 絹本著色大覚禅師像霊石如芝賛(重要文化財)
- 絹本墨画観音像32幅(重要文化財)
- 紙本墨画喜江禅師像[祥啓筆、玉隠英璵賛](重要文化財)
- 木造伽藍神像5躯(重要文化財)
- 木造北条時頼坐像(重要文化財)
- 黒漆須弥壇(重要文化財)
- 金剛般若経蘭渓道隆筆(重要文化財)
- 和漢年代記(重要文化財)
- 大覚禅師墨蹟3幅(重要文化財)
- 西来庵修造勧進状、玉隠英璵筆(重要文化財)
- 建長寺境内(国史跡)
建長寺の周辺図