高部屋神社。延喜式式内社、旧郷社
高部屋神社の概要
高部屋神社は、伊勢原市下糟屋にある神社です。高部屋神社の創建年代は不詳ですが、「延喜式神名帳」に記載されている相模国13座の1座に比定されており、一説には起紀元前655年の創建とも伝えられます。当地は千鳥ヶ城と呼ばれる要害であったことから武家との関わりも深く地頭等による禁制などが残されている他、天正19年(1591)には徳川家康から社領10石の御朱印状を受領しています。明治6年村社に、大正6年郷社に列格していました。
社号 | 高部屋神社 |
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祭神 | 神倭伊波禮彦命 |
相殿 | 三箇男命(住吉大神)、誉田別命、大鷦鷯命、息気長足姫命、磐姫之命 |
境内社 | 八坂神社・金毘羅神社・水神社・稲荷神社 |
祭日 | - |
住所 | 伊勢原市下糟屋2202 |
備考 | - |
高部屋神社の由緒
高部屋神社の創建年代は不詳ですが、「延喜式神名帳」に記載されている相模国13座の1座に比定されており、一説には起紀元前655年の創建とも伝えられます。当地は千鳥ヶ城と呼ばれる要害であったことから武家との関わりも深く地頭等による禁制などが残されている他、天正19年(1591)には徳川家康から社領10石の御朱印状を受領しています。明治6年村社に、大正6年郷社に列格していました。
新編相模国風土記稿による高部屋神社の由緒
(下糟屋村)八幡宮
鎮守なり。「延喜式」に載たる當国十三座の内、高部屋神社なり。華表に、其神號の額をかく、神祇伯寳延王筆。
祭神五座。中央応神天皇、神体座像、長二寸、本地佛弥陀。右若宮大神、仁徳天皇、神体幣束、下同。気長足姫大神、神功皇后。左姫宮大神、大日靈貴尊。住吉大神、表筒男命、中筒男命、底筒男命。なり。
例祭七月七日。
幣殿・拝殿あり。天文十年九月、地頭渡邊石見守某、當社造営す。棟札あり、曰奉造立、大日本国相州大住郡糟屋庄、八幡大菩薩、大檀那、地頭渡邊石見守、小檀那代官、都筑太郎左衛門、別當律師賀順、大工明王太郎、本願主得生、鍛冶當村宣朗助次吉次彦右衛門、天文二十年辛亥、九月廿八日。
天正九年五月、境内三ヶ條の法度を定む。社蔵文書写曰、相定法度、糟屋之郷八幡御社頭、於左右前後、竹木不可剪、并馬不可繋候事、喧嘩口論不可致候事、并殺傷放火之事、出陣之砌、松山家中衆、別而如斯之法度、致覚悟、以下之者共に、堅可申付候事、右三カ條有違犯之輩者、以書付都筑豊後守所へ可申来候、其断明白可申付候、仍如件、天正九辛巳年、五月十日、別當法禅坊、能登守長則華表。按ずるに、長則は北條氏の臣なるべし、其氏詳ならず。
社領十石の御朱印は、天正十九年十一月賜ふ、社前に應永廿八年の石燈籠あり。(銘中略)
鐘楼。鐘に至徳三年の銘あり、(銘中略)
神楽殿。
槻樹、神木なり、囲二丈七寸。
末社。天神、稲荷、秋葉、神明二内宮外宮、聖天二、金比羅、天王、水神。
薬師堂。
観音堂。
別当神宮寺。糟屋山と號す、臨済宗鎌倉建長寺末、開山大本師嵩山、応永二年二月六日卒。中興海岳、慶安元年五月三日卒。按ずるに、本社條に引用せし、天正九年の文書に、別当法禅坊とあり、是當寺の舊號なるにや。本尊釈迦。
社僧圓福寺。
照林山と號す、古義真言宗、岡崎金剛頂寺末。不動を本尊とす。(新編相模国風土記稿より)
境内掲示による高部屋神社の由緒
当社は、「延喜式神名帳」に記載されている相模国13座の1座で、大住郡127ヵ村の惣社と言われていた。創建年代は不詳なるも、紀元前655年とも言われている。糟屋住吉の大神として、又の名を「大住大明神」と呼ばれ、武門・武士を始め万民の崇敬せられたる古社である。江戸中期頃までは、別名「糟屋八幡宮」と呼ばれ名社の名を謳われた。古社たる由縁には、「汐汲みの神事」があり、更に雅楽面3面の古面と、源朝臣・頼重施入の経巻・上杉定正が寄進の大般若経の写経の伝来があり、境内の釣鐘堂には、至徳3年(1386年作・県重要文化財)平秀憲が寄進の銅鐘が、今でも時を刻んでいる。京都宇治にある黄檗山万福寺7世で、中国の福建省・泉州府・晋江県からの渡来僧、悦山道宗筆による「八幡宮」の扁額(元禄初期の作)があり、本殿前の狛犬を寄進した行按・行白も臨済宗・黄檗派の僧で、一時期、別当神宮寺と共に黄檗派との関係が深かったと思われる。
当神社のこの地は、千鳥ヶ城と呼ばれる要害が後北条氏の滅亡まで、社地の続きに存在が最近の調査で認められた。鎌倉時代に源頼朝の家人・藤原鎌足・冬嗣の血を引く糟屋庄の地頭「糟屋藤太左兵衛尉有季」の館跡と言われていて、高部屋神社を守護神として社殿を造営した。室町時代に入ると、将軍・足利氏の家人団・上杉一族の関与があったと思われている。糟屋氏・上杉氏と関わった 武士達の興亡をのせてきた高部屋神社も、後北条氏を迎え、相模国風土記稿に載る、天正9年(1581年)5月1日八幡宮境内の3ヶ条、松山城主・上田能登守長則の禁制(法度)が知られている。又、天文20年(1551年)に地頭、渡辺石見守が社殿を再興し、天正19年(1591年)徳川家康から式内社の名社あることで、社領10石を寄進し、朱印状を頂いた。社殿は、正保4年(1647年)に本殿を再建されたが、関東大震災で倒壊し、昭和4年に柱・彫刻・正面扉等をそのまま生かし再建、拝殿は、慶応元年(1865年)に再建され現在に至っている。尚、拝殿正面の頭上に、山岡鉄舟の筆による「高部屋神社」の社号額が掲げられている。(境内掲示より)
高部屋神社所蔵の文化財
- 高部屋神社梵鐘(神奈川県指定重要文化財)
- 「八幡宮」の扁額(悦山道宗筆)
高部屋神社梵鐘
高部屋神社は、別名を八幡神社と称し、平安時代に書かれた「延喜式」にもその名が残る延喜式内社です。この神社に伝わっている銅鐘は書かれている銘から至徳三年(一三八六)十二月に河内守国宗によって造られ、平秀憲によって奉納されたことがわかります。
竜頭は鼻の上に鋭い目と眉、紐をくわえた口と全体に引き締まっています。笠形については上面のほとんどが平らに近いふくらみをもち下端に一隆線をめぐらせています。上帶は各縦帶の上に一個ずつ陽鋳(浮き出た)の遊離飛雲文が見られます。乳は四段四列の太い茸形でしっかりとしています。池の間には、上下に鋳型の繋ぎ目が見られ、銘文が陰刻(彫り刻まれた)されています。下帶は各縦帶の下に陽鋳の遊離訪唐草文が見られ、撞座には花弁の短い八弁の蓮華文が見られます。
鐘の全体としてはよく整った優れた作品であり、上帶下帶に見られる文様や作者である河内守姓などから鎌倉を中心とする文化圏のものとわかります。(伊勢原市教育委員会掲示より)
高部屋神社の周辺図