鎌倉宮。祭神大塔宮護良親王、官幣中社
鎌倉宮の概要
鎌倉宮は、建武の中興で命を奪われた護良親王の遺志を伝えるため、明治天皇の命により、明治2年(1869)に創建しました。当地は、護良親王が捕えられてから幽閉された東光寺の跡といわれ、土牢が残されています。
社号 | 鎌倉宮 |
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祭神 | 大塔宮護良親王 |
相殿 | - |
境内社 | 南方社(藤原保藤息女南御方)、村上社(村上彦四郎義光公) |
祭日 | 薪能神事:10月8・9日 |
住所 | 鎌倉市二階堂154 |
備考 | 官幣中社 |
鎌倉宮の由緒
鎌倉宮は、建武の中興で命を奪われた護良親王の遺志を伝えるため、明治天皇の命により、明治2年(1869)に創建しました。当地は、護良親王が捕えられてから幽閉された東光寺の跡といわれ、土牢が残されています。
鎌倉市掲示による鎌倉宮の由緒
後醍醐天皇の皇子である護良親王を祭神とする神社です。
護良親王は、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の動きに呼応して幕府軍と戦うなど、貢献しました。
幕府が滅亡し天皇親政が復活(建武の新政)すると征夷大将軍に任じられましたが、その後足利尊氏と対立して捕えられ、二十八歳で非業の最期を遂げました。社殿の後ろ手に残る土牢が親王最期の地と伝えられています。
十月には境内で薪能が催されます。(鎌倉市掲示より)
神奈川県神社誌による鎌倉宮の由緒
御祭神は後醍醐天皇の皇子にて大塔宮と申し上げる。後醍醐天皇のために御尽瘁し、建武中興を成しとげ、その折の御功績により兵部卿征夷大将軍に補せられたが、やがて足利尊氏と対立。建武元年(一三三四)に捕えられ鎌倉に護送され、東光寺(廃寺)裏の土牢へ幽閉された。「中先代の乱」に際し、足利直義の命をうけた淵部義博の手で弑された。御年二十八歳であられた。
明治天皇は明治維新の鴻業を成就し大政なるや、明治元年七月、京都聖護院に神座を設け親王を奉斎せられ、同二年二月、親王御終焉の遺跡と云われる現在の地に、社殿の造営を仰せ出され、同年六月、鎌倉宮の宮号を賜い、同年七月社殿竣成するや、二十一日に御鎮座の儀が行われ、二十三日には勅使が参向し、例祭が執り行われた。明治六年四月十六日明治天皇の行幸親祭があらせられ、同年六月官幣中社に列せられた。
本殿背後に親王が幽閉されていたと伝えられている土牢や、親王の首を打ち捨てたという御構廟などの遺跡がある。(単立神社)(神奈川県神社誌より)
鎌倉宮所蔵の文化財
- 護良親王馬上像(山田鬼斉作)
- 水戸烈公筆(徳川斉昭公自筆色紙)
- 御下賜額(明治天皇17歳の折の御宸筆)
- 歴代連合艦隊指令長官書5面
- 御土牢
鎌倉宮の周辺図