白山東光寺。畠山重忠公開基・大興禅師開山
東光寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の東光寺は、白山と号します。東光寺は、畠山重忠公(1205没)が開基となり、畠山重忠公の念持仏薬師如来を本尊として鎌倉建長寺第六世勅謚大興禅師が建仁年間(1201-1204)鎌倉二階堂(鎌倉宮地)に開山したといいます。その後応仁年間(1467-1469)頃に、畠山重忠にゆかりのある当地へ移転しています。当寺所蔵の鞍・鐙・轡・鞖は畠山重忠のものと伝えられ、横浜市有形文化財に指定されています。金沢三十四所観音霊場16番です。
山号 | 白山 |
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院号 | - |
寺号 | 東光寺 |
住所 | 横浜市金沢区釜利谷南2-40-8 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
東光寺の縁起
東光寺は、畠山重忠公(1205没)が開基となり、畠山重忠公の念持仏薬師如来を本尊として鎌倉建長寺第六世勅謚大興禅師が建仁年間(1201-1204)鎌倉二階堂(鎌倉宮地)に開山したといいます。建武の中興に際しては護良親王(大塔宮)が当寺書院に幽閉されていたとされ、その後年不詳ながら、応仁年間(1467-1469)頃に畠山重忠にゆかりのある当地へ移転したといいます。当寺所蔵の鞍・鐙・轡・鞖は畠山重忠のものと伝えられ、横浜市有形文化財に指定されています。
東光禅寺栞による東光寺の縁起
白山東光禅寺縁起
当寺はおよそ八百年前、建仁年間(一二〇〇年頃)の創建と伝えられ、創建当時は鎌倉薬師ヶ谷(現大塔宮)にありました。
開基は鎌倉幕府開幕の功臣畠山重忠公、開山は臨済宗大本山建長寺第六世勅謚大興禅師、本尊の薬師如来(指定文化財)は重忠公の念持仏です。
この釜利谷付近には重忠・重保父子の供養塔があり、重忠の自領か一族の誰かが住していたと思われます。(東光禅寺栞より)
新編武蔵風土記稿による東光寺の縁起
(宿村)
東光寺
除地、二畝二十歩白山にあり禅宗臨済派、鎌倉建長寺末、白山と號す、古は真言宗にて、寺前村稱名寺末なりしが、建長寺六世大興禅師中興して禅宗に改め、同寺の末となせりと云、按に稱名寺に蔵する、應永三十一年五月二日足利持氏の文書に、武蔵國六浦庄、釜利谷郷白山堂事、任去建武二年六月十一日、並貞和六年二月二十一日、寄附之旨、爲稱名寺末寺、如元領不可有相違云々とあり、白山堂はすなはち當寺のことなれば、應永の頃は未だ稱名寺末たりしこと明けし、しかるに大興禅師は、應永三十一年より百廿四年の前、正安三年十二月六日示寂したれば、年代齟齬す、こは應永以後他の僧改宗して、禅師を勧請し、中興開山と稱せしを、後世誤りて禅師在世のことゝせしなるべし、本堂六間に五間東向、額に東光寺とあり、門には白山の二字を扁せり、本尊薬師は坐像にして、長一尺三寸定朝の作と云、前立の像は長九寸運慶の作なり、この本尊三十年に一度開闢すと云、
寺寶
鞍一口。海なしなり、摠青貝砂子、前後の輪に酸漿の實を蒔繪にし、前輪は文字と花押あれど文字は滅す、畠山重忠の鞍と云、其頃の物には非ざるべけれど、古物と見ゆ、圖上に出す、
鐙一足。菊水、又は七寶の銀象眼あり、金澤住氏賢作と銘せり、
轡一口。普通のものに似たり、左右に銘あり、一は市口求馬作、一は藤原清重と彫れり、
觀音堂。門を入て左にあり、三間四方の堂にて、觀音は立像長二尺餘惠心の作と云、金澤札所の内第十六番なり、
畠山重忠戰死舊蹟。境内西の方なる山なり、土人畠山次郎重忠此山中にして自害せしと云、既に【愚菅抄】にも、重忠は武士の方はのぞみたりて、第一にきこえさればうたれけるにもよりつく人もなく、終に我とこそ死にけるとあり、されど【東鑑】には、武蔵國二俣川の邊鶴ケ峯の麓にて、愛甲三郎季隆が發つ所の矢に中り、重忠死せしことを記す、二俣川は都筑郡にあり、今其處に二俣川村と稱せる地あり、鶴ケ峯は其村に隣れる今宿村の内にあり、其邊の土人も彼所を重忠が戰死の地なりといへば、重忠は都筑郡二俣川にして戰死せしこと明けし、おもふに隣村坂本村に、重忠の子六郎の墓あり、また二俣川と云も其村に在ば、是事に因て爰に附會して、當所を重忠自害の地といへるなるべし、猶都筑郡二俣川村の條合せ見べし、(註:畠山重忠公首塚)(新編武蔵風土記稿より)
新編相模國風土記による東光寺の縁起
東光寺蹟
覺園寺東南の山麓にありて醫王山と號せし一宇の禅刹なり、蚤く廢して寺號のみ陸田の字に殘れり、建武二年五月(【元弘日記】裡書【梅松論】【保暦間記】等、皆元年十一月に係り、今は【太平記】に從ふ)足利直義大塔宮を東國に下し、土牢を構へて禁獄しせしは即此所なり(註釈省略)
七月淵邊伊賀守義博直義の内命を承け、爰に来たりて宮を弑す、(註釈省略)
慶長元年元年五月圓覺寺前住昭元寶満寺(所在詳ならず)に寓して寂せり、時に塔を當寺に建つ(註釈省略)
貞和三年七月住僧友桂、國朝の爲に寶塔を創立せり(【竺仙録】曰、貞和三年七月二十三日、日本國相模州鎌倉縣、東光福寺住持比丘友桂、爲國朝建立寶塔、)永和二年五月義堂當寺に大清を訪し事【日工集】に見えたり(曰く、永和二年五月廿二日、余就于東光、與大清相看、略叙久濶之情而已)されば當時存在にて堂塔廢亡せしは是より後の事なるべきか今其傳なし、或説に當寺は民部大夫行光(二階堂の祖山城守行政が長男、)が承元三年に創建せし伽藍にて茲年十月十日供養を遂ぐ、時に二位の禅尼を始北條の一族等参堂ありし事【東鑑】に見えたる是なるべしと云へど、信據なければ從ひ難し、又按ずるに此邊に薬師堂新造の事、同書に見えたり、そは建久二年賴朝精舎建立の志ありて二月十五日大倉山邊を歴覧し、此に堂地を卜す(曰、建久二年二月十五日、幕下歴覧大倉山邊給、爲建立精舎、得其靈地給之故也、是去々年、征奥州給之時、合戦無爲之後、鎌倉中可艸創伽藍之由、有御立願云々、)三年六月十三日畠山次郎重忠、佐貫四郎大夫廣綱等の近臣、手づから土石梁棟を運びて堂宇を營む賴朝監臨あり(註釈省略)
四年九月二十七日供養の導師下向の事を京に申す(曰、九月二十七日、来月御堂供養、導師下向之間事、被仰道宮内大輔重賴之許)三十日近國の諸士に供養警固の役を命ず、(註釈省略)
十月三日導師前權僧正眞圓の許に旅中の雑費を送らる
(中略)
此等の事蹟歴然と見えたれども別に今其廢蹟をとどめず、恐らくは當寺の事あるも識るべからず、醫王をもて山號となすものは必薬師安置の故なれば姑く爰に臆説を擧ぐ、(新編相模國風土記より)
東光寺所蔵の文化財
- 本尊薬師如来像
- 酸漿蒔絵鞍(横浜市指定有形文化財)
- 絹本著色釈迦十六善神図一幅(横浜市指定有形文化財)
酸漿蒔絵鞍
鞍橋(くらぼね)
木製であり、前後の輪は樫、居木は黄楊で作られ、前輪に手形を左右に刳り、前面を平坦にした形式で、海なし鞍の水干鞍と呼称されています。装飾は木地の一部に布張り、漆下地を施した上に黒漆が塗られ、表前面にわたり細かい青貝を撒き、前輪の前面には細棒に酸漿の実を連ねた文様が高蒔絵で描かれています。
右の居木の滝口と前後輪の切組には「播磨東城」の花押があります。この花押は、江戸前期(十七世紀中頃)に活躍した鞍師の花押です。
鐙(あぶみ)・轡(くつわ)・鞖(しおで)
附属品の鐙と轡は鍛鉄製、鞖は真鍮製である。鐙は舌長鐙、轡は十文字轡装飾に菊水・七宝文を銀象嵌がしてある。鞖は三角形で、装飾に南蛮唐草文を真鍮象嵌してある。(横浜市教育委員会掲示より)
絹本著色釈迦十六善神図一幅
釈迦・普賢・文殊の三尊を中心にして、十六善神を描き、玄奘三蔵とその難を救ったと言われる深沙大将を配しています。鎌倉時代以降の図様に属します。
目の荒い絹に鋭い墨線え画面一杯に諸尊が描かれ、截金なども用いられた跡が見られます。全体としては沈んだ色彩感が強く、作者が当時新しい水墨画法を取り入れようとしていたことがわかります。
この絵画は十三世紀末から十四世紀の鎌倉文化圏における一連の作品群の流れの中に位置し、東国の中世文化の様相を示すものとして貴重です。(横浜市教育委員会掲示より)
東光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵国風土記稿
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