五所神社。鎌倉市材木座の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

五所神社。相馬天王、材木座の鎮守、旧村社

五所神社の概要

五所神社は、鎌倉市材木座にある神社です。五所神社は、明治22年に乱橋村と材木座村が合併、旧乱橋村の鎮守で村社に列格していた三島神社(当地)に材木座の鎮守、諏訪神社・乱橋村龍蔵寺部落の八雲神社・金比羅宮・材木座村仲島部落の見目明神の四社を明治41年に合併、五所神社と改名したといいます。

五所神社
五所神社の概要
社号 五所神社
祭神 大山祇命、天照大御神、素戔嗚命、建御名方命、崇徳院命
相殿 -
境内社 石神社
祭日 例祭日7月7日
住所 鎌倉市材木座2-9-1
備考 -



五所神社の由緒

五所神社は、明治22年に乱橋村と材木座村が合併、旧乱橋村の鎮守で村社に列格していた三島神社(当地)に材木座の鎮守、諏訪神社・乱橋村龍蔵寺部落の八雲神社・金比羅宮・材木座村仲島部落の見目明神の四社を明治41年に合併、五所神社と改名したといいます。

境内掲示による五所神社の由緒

明治二十二年(一八八八)乱橋村と材木座村が合併して西鎌倉郡大字乱橋村材木座となった後明治四十一年(一九〇八)七月にもとの乱橋村の鎮守”三島神社”(現在の地)の地に材木座の鎮守、諏訪神社(現材木座五-十三-八 山ノ上方)乱橋村龍蔵寺部落の八雲神社(現材木座四-四-二六 公会堂内)、金比羅宮(材木座四-七-二 佐竹宅裏山「普賢象山」中腹)、材木座村仲島部落の見目明神(材木座六-七-三五)の四社を合併して五所神社として改名したものである。
もとの五所はいずれも勧請年月不詳このうち見目明神は補陀洛寺文書に見目天王と二貫三百文の地を北条氏康が同時に寄進しているから古くから同寺の鎮守であったと思われる。
「新編鎌倉誌」には、見目明神とよんだ宝満宮菩薩像があったとみえ「風土記稿」には牛頭天王、見目明神社合社とある。
三島神社は、乱橋村持「風土記稿」で八雲社を相殿とし、この相殿天王みこし棟札によれば、寛永十九年(一六四二)修造以後、延宝九年(一六八一)元禄十一年(一六九八)元文二年(一七三七)宝暦十三年(一七六三)に修理を加え、万延元年(一八六〇)に再建している。
諏訪社は補陀洛寺であった「風土記稿」明治八年(一八七五)公達に基づいての皇国地誌調査さんによると次の通り記載されている。
三島社
式外村社々地東西四間南北六間三尺面積二六坪の東方二アリ大山祇命ヲマツル。
勧請年暦詳ナラス 例祭四月 十一月ノ酉ノ日ヲ用ウ
見目社
同社東西九間南北八間四尺八寸面積七九坪村ノ東西間ニアリ祭神及ビ勧請年暦詳ナラス
例祭二月二七日 六月七日両回トス
諏訪社
同社東西八間一尺二寸南北一間六寸面九坪村のノ南方ニアリ祭神建御名方命勧請年暦詳ナラス
例祭六月七日 七月二七日ノ二回トス
金比羅社
同社東西十間南北七間面七十坪村ノ辰ノ方ニアリ祭神金山彦命勧請年暦詳ナラス
例祭十月十日
現在の社殿は昭和六年(一九三一)七月に新築されたものである。
もとの本殿は明治一六年(一八八三)七月諏訪神社の本殿を合併後、移建したものであったが大正十二年(一九二三)九月一日震災のとき山崩れのため社殿埋没全潰した。(境内掲示より)

神奈川県神社誌による五所神社の由緒

当所は昔、乱橋村と材木座村に分れていたが、明治になり、東鎌倉村に編入、大字乱橋材木座と改められた。もと乱橋村に三島、八雲、金刀比羅の三社があり、もと材木座村に諏訪、視女八坂の二社があったが、明治六年十二月三島社が村社に列格され、正式に村の鎮守となり、その後明治四十一年七月他の四社が三島社に合併され、社名を五所神社と改称した。大正二年八月神饌幣帛料供進神社に指定された。材木座地区の氏神社(神奈川県神社誌より)

新編相模国風土記稿による五所神社の由緒

(亂橋村)
三島社
村持、
(材木座村)
諏訪社
補陀落寺持 (新編相模国風土記稿より)


五所神社の周辺図