行時山光則寺。日朗上人らが入牢していた土の牢屋
光則寺の概要
日蓮宗寺院の光則寺は、行時山と号します。光則寺は、鎌倉時代の武士四条金吾の屋敷跡に、収玄庵と称して文政年間(1818~30)に創建、安国寺32世日勇が開山したといいます。四条金吾は、日蓮聖人の龍ノ口法難に際し、殉死の覚悟を決した武士で、日蓮聖人の檀越となり、法名を収玄院日頼上人といいます。
山号 | 行時山 |
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院号 | - |
寺号 | 光則寺 |
本尊 | 木像阿弥陀三尊立像 |
住所 | 鎌倉市長谷3-9-7 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 日朗上人の土の牢 |
光則寺の縁起
光則寺は、鎌倉時代の武士四条金吾の屋敷跡に、収玄庵と称して文政年間(1818~30)に創建、安国寺32世日勇が開山したといいます。四条金吾は、日蓮聖人の龍ノ口法難に際し、殉死の覚悟を決した武士で、日蓮聖人の檀越となり、法名を収玄院日頼上人といいます。
「日蓮宗寺院大鑑」による光則寺の縁起
文政(1818~30)年間の創立。開山安国寺32世日勇。池上・士富店法縁。この地は文永8年竜の口法難の砌、霊山へ御伴つかまらんと殉死の覚悟を決した四条金吾の屋敷跡で、金吾の滅後に捨身護法・法華色読の霊地として一寺を建立したものである。創立時は収玄庵と称したが大正初期現本堂を建立し寺号公称。東郷平八郎書の四条金吾殿邸跡の碑がある。(「日蓮宗寺院大鑑」より)
新編相模国風土記稿による光則寺の縁起
(長谷村)
該当記載なし(新編相模国風土記稿より)
光則寺の周辺図