宝珠院。鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派寺院

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宝珠院。建長寺の塔頭寺院

宝珠院の概要

臨済宗建長寺派寺院の宝珠院は、竹園山と号し、建長寺境内にある建長寺の塔頭寺院です。建長寺三十五世了堂素安(本覚禅師)の塔所として正平4年(1349)建長寺内に創建したといいます。

宝珠院
宝珠院の概要
山号 竹園山
院号 宝珠院
寺号 -
本尊 釈迦如来像
住所 鎌倉市山ノ内104
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



宝珠院の縁起

宝珠院は、建長寺三十五世了堂素安(本覚禅師)の塔所として、畠山国清が開基となり、正平4年(1349)建長寺内に創建したといいます。了堂素安は、東勝寺(廃寺)、壽福寺を経て建長寺の住持を務めた他、相模法泉寺、伊豆吉祥寺を創建しています。また江戸期には長谷観音堂(現長谷寺)の別当を務めていたといいます。

新編相模国風土記稿による宝珠院の縁起

宝珠庵
開祖は三十五世、素安なり。高僧傳曰、釋素安号了堂、不考姓氏、筑之博多人、至年十三、禮同原本公於筑之保寧、披削稟具参訊久之、一日辞原去、遊相州、謁西澗曇和尚于円覚、後應諸山之選暦遷東勝(廃寺)、寿福、建長、三大刹。晩構宝珠庵、以退靖、延文5年10月20日逝。閲世六十有九、荼毘数珠不壊、現設利数百粒、塔于本庵、膀曰如意、賜謚本覚禅師。
庵中に啓書記が旧跡あり。貧楽斎と号す。慶安元年8月太神宮領、下野国簗田御厨の地当庵に寄せらる。所蔵文書曰、太神宮領、下野国簗田御厨□縣郷事、地頭職者、可為権丁字宝珠庵領、之由、被成将軍家寄進状、云々。神税事、毎年三十余貫之條、雖為先例、依有仔細十貫、毎年可有直納于本家之旨所令契約也、更不可有異孌之儀、若有対押事者、非此限矣、仍為永代之状如件、慶安元年8月3日、本家太神宮、権禰宜正富神主永房華押。
永和4年12月入道道維下総の内にて庵領寄附の事あり。曰、下総国□郷神半分事、存為天長地久国家安穏珠瑞泉寺殿御菩提並先師本覚禅師、燈油料将又亡父、崇中禅門追善、相副彼新相傳證文。永代所令寄附于当庵也。若為道維之遺跡、所違乱之輩者、可為不孝之者也。仍寄附之状、如件、永和4年12月5日、道維華押。
5年本州の内にて釋祖欽、廃庵の地寄進あり。曰奉寄進建長寺宝珠庵、相模国柳田郷、新日吉敷地内、稲子田畠地、并在家裏濱事、右所者比丘尼祖欽所領也。然為母妙瓓尼菩提、相副次第手織證文等、所寄進宝珠庵也、若有違乱輩者、可被処罪科者也。仍寄進状、如件、永和5年己未4月13日、比丘尼祖欽華押。
此他庵領の地ありし事、所蔵応永中の文書(其文は下に註記す)に見えたり。(新編相模国風土記稿建長寺項より)


宝珠院所蔵の文化財

  • 木造釈迦如来坐像
  • 木造了堂素安坐像

宝珠院の周辺図