稲荷山別願寺。足利基氏、氏満、満兼三代の菩提寺
別願寺の概要
時宗寺院の別願寺は、稲荷山超世院と号します。別願寺の創建年代等は不詳ながら、かつては能成寺と号す真言宗寺院だったといいます。公忍の代に一遍上人に帰依、弘安5年(1282)時宗に改め、公忍は覚阿に、寺号は別願寺としています。足利幕府時代は、足利基氏、氏満、満兼三代の菩提寺となり、匝瑳市横須賀や下野市・宇都宮市付近に広大な寺領を寄進されていました。鎌倉三十三観音霊場第13番です。
山号 | 稲荷山 |
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院号 | 超世院 |
寺号 | 別願寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 鎌倉市大町1-11-4 |
宗派 | 時宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
別願寺の縁起
別願寺の創建年代等は不詳ながら、かつては能成寺と号す真言宗寺院だったといいます。公忍の代に一遍上人に帰依、弘安5年(1282)時宗に改め、公忍は覚阿に、寺号は別願寺としています。足利幕府時代は、足利基氏、氏満、満兼三代の菩提寺となり、匝瑳市横須賀や下野市・宇都宮市付近に広大な寺領を寄進されていました。
新編相模国風土記稿による別願寺の縁起
(大町村)別願寺
名越町にあり、稲荷山超世院と號す、時宗(藤澤清浄光寺末、)本尊彌陀を置く(銅佛立像長二尺二寸、佐竹稲村の神作と云ふ、)往昔は眞言宗にて能成寺と云ひしとぞ(起立年代、開山等詳ならず、)弘安五年五月遊行始祖一遍廻國の時、住僧公忍故有て改宗し、即一遍弟子となり、今の寺院號に改め名をも覺阿と改む故に此僧を開基と稱す、永徳二年十月管領氏満先管領基氏菩提の爲下總國相馬御厨内、横須賀村を寄附す、(注釈)
明徳二年九月氏満下野國薬師寺庄半分を當寺領に寄附す(注釈)
應永七年九月先の寺領地を當寺に渡すべき旨上杉朝宗入道禅助より結城弾正少弼入道に命を傳へし事あり(注釈)
十二月管領満兼に至りて同所を又氏満菩提のため更に寄附の命あり(注釈)
十三年五月満兼名越報恩寺敷地山林等を當寺領に寄附す、(注釈)
廿二年十二月管領持氏總野二州の寺領地先規に任せ寄附の命を下す(注釈)
廿七年二月持氏當寺門前畠を満兼菩提の爲に寄附す(注釈)
天文廿二年十一月小田原北條氏棟別錢を免許す(注釈)
永禄九年八月北條氏の臣大道寺駿河守政繁敷地を寄附せり(注釈)
今寺領二貫五百六十文の御朱印は天正十九年に賜へり、
【寺寶】△阿弥陀像一幅(行基筆、)△足利系圖一巻△當寺古圖一枚(文和二年四月十一日とあり)△縁起一巻
△足利持氏墓。本堂の西にあり、五輪塔にて長春院殿其阿彌陀佛、永享十一年二月十日と彫る、持氏追福の爲後に建たるものか来由詳ならず、(新編相模国風土記稿より)
別願寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿