大寳寺。鎌倉市大町にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

多福山大寳寺。佐竹義盛多福寺殿屋敷地

大寳寺の概要

日蓮宗寺院の大寳寺は、多福山と号します。大寳寺は、当地に屋敷を構えていた佐竹義盛が応永6年(1399)邸宅を寺院に転じて多福寺を建立、日蓮宗の高僧一乗院日出上人が文安元年(1444)多福山一乗院大寶寺と改めたといいます。

大寳寺
大寳寺の概要
山号 多福山
院号 -
寺号 大寳寺
本尊 三寶祖師像
住所 鎌倉市大町3-6-22
宗派 日蓮宗
縁日 -
葬儀・墓地 -
備考 -



大寳寺の縁起

大寳寺は、当地に屋敷を構えていた佐竹義盛が応永6年(1399)邸宅を寺院に転じて多福寺を建立、日蓮宗の高僧一乗院日出上人が文安元年(1444)多福山一乗院大寶寺と改めたといいます。

鎌倉市掲示による大寳寺の縁起

このあたり一帯は、御家人・佐竹氏の祖先である新羅三郎義光が、兄の源義家とともに奥羽の戦乱「後三年の役」を鎮めた後、この地に館をかまえて以来、佐竹氏の屋敷となったと伝えています。
応永六年(一三九九)、佐竹氏の一族である佐竹義盛が出家し多福寺を建立した後、文安元年(一四四四)日蓮宗の高僧一乗院日出上人が再興し、旧寺名を山号に改め多福山大寶寺となりました。境内には義光が信仰した多福明神社があります。
また、本堂には子どもたちの無事成長を護る「子育鬼子母神」が奉られています。(鎌倉市掲示より)

新編相模国風土記稿による大寳寺の縁起

(大町村)大寶寺
佐竹山にあり、多福山一乗院と號す(前末寺:妙本寺末)、寺傳は文安元年開山日出(長禄三年四月九日寂す)起立し、此地に新羅三郎義光の靈廟あるが故、其法名多福院と云ふを執て山號とすと云へり、されど義光の法名と云ふもの信用し難し、恐らくは訛なるべし、土人の傳に此地は佐竹常陸介秀義以後數世居住の地にて今猶當所を佐竹屋鋪と字するは此故なりと云ふ、是に【諸家系圖纂】を参考するに秀義の後裔右馬頭義盛應永六年鎌倉に多福寺を建とあり(曰、義盛左馬頭、右馬頭、法名大淳常盛四十三歳、應永十四年九月廿一日遠行、號多福寺殿、多福寺は鎌倉にあり、又曰、大淳者三十五歳の時、鎌倉の多福寺を御建立)是に據れば其先義盛當所の邸宅を轉じて一寺創建ありしが、蚤く廢寺となりしを文安に至り、日出其舊趾に就て當寺を營み舊寺號を執て山に名づけ、今の寺院號を稱せしなるべし、本尊三寶諸尊及び祖師の像を安ず、
△祖師堂。日蓮及び開山日出の像を安ず、鬼子母神の像をも置けり
△多福明神社。新羅三郎義光の靈廟と云ふ、明應八年權大僧都日證(本山九世)一社に法號を神號とすと傳ふ、恐らくは佐竹義盛の靈廟を義光と訛り傳ふるなるべし、毎年六月七日佐竹天王祭禮の時爰に彼神輿を渡し神事を行ふ、其式舊例に随ふと云ふ、前の天王社傳に昔此地に佐竹秀義の靈社ありしが破壊の後、彼祇園の相殿に祀ると云ふ、是に據れば當社も義盛が靈社と云んに論なかるべし。(新編相模国風土記稿より)


大寳寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿