教恩寺。鎌倉市大町にある時宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

中座山教恩寺。北條左京大夫氏康開基

教恩寺の概要

時宗寺院の教恩寺は、中座山大聖院と号します。教恩寺の創建年代等は不詳ながら、大聖寺殿東陽岱公(北條左京大夫氏康)が開基となり、知阿上人が開山したといいます。創建当初は光明寺北の山際にありましたが、延宝6年(1678)当地へ移転、当寺の本尊阿弥陀三尊像は、源頼朝が(囚えられた)平重衡に与えたものだと伝えられます。鎌倉三十三観音霊場第12番です。

教恩寺
教恩寺の概要
山号 中座山
院号 大聖院
寺号 教恩寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 鎌倉市大町1-4-29
宗派 時宗
葬儀・墓地 -
備考 -



教恩寺の縁起

教恩寺の創建年代等は不詳ながら、大聖寺殿東陽岱公(北條左京大夫氏康)が開基となり、知阿上人が開山したといいます。創建当初は光明寺北の山際にありましたが、延宝6年(1678)当地へ移転、当寺の本尊阿弥陀三尊像は、源頼朝が(囚えられた)平重衡に与えたものだと伝えられます。

新編相模国風土記稿による教恩寺の縁起

(大町村)教恩寺
中座町にあり、中座山(【鎌倉志】に寶海山とあり、貞享已後改しにや、)大聖院と號す(本寺前に同じ:藤澤清浄光寺末)、開山は知阿開基は俗称稱を傳へず、大聖院東陽岱公とのみ傳ふ、是北條左京大夫氏康の法名にて今大住郡栗原村萬松寺に其牌あり(大聖寺殿東陽岱公、元龜二年十月三日と記せり又同寺所蔵、天正二年の文書に、大聖院様號御位牌所云々とあり)剏建の年代を傳へざれど、是に據て推考すべし、【鎌倉志】里老の言を引て舊は光明寺の境内北の山際に在しを延寶六年僧貴譽此地に移す、元此地に善昌寺と云ふ光明寺の末寺あり、其寺廢蕪せしが故當寺を爰に移し元の當寺蹟を所化寮とすと記せり、三尊の彌陀(運慶作)を本尊とす、寺傳に是は元暦元年平家沒落の時三位中将重衡囚れて鎌倉に在し程賴朝が授與の靈像にて重衡が歸依佛なりと傳ふ、當寺安置の来由傳はらず
【寺寶】
△盃三口。共に重衡の盃と云ふ(【鎌倉志】には一口と擧げ、重衡千手前と、酒宴の時の盃なりと記せり、按ずるに、【東鑑】元暦元年四月廿日の條に曰、本三位中将、依武衡御免、有沐浴之儀、其後及乗燭之期、稱爲慰徒然披遣藤判官代邦通、工藤一﨟祐經、官女一人號千手前等、於羽林之方、剰被副送竹葉上林已下、羽林殊喜悦、遊興移剋、祐經打鼓歌今様、女房弾琵琶、羽林和横笛、先吹五常楽、爲下官以可爲後生樂由稱之、次吹皇[麻かんむりに車]急、謂往生急、凡於事莫不催興、及夜半女房欲歸、羽林暫抑留之而盃及朗詠、燭暗數行寞氏涙、夜深四面楚歌聲云々、其後各歸参御前、武衡令問酒宴次第給云々、又武衡令持宿衣一領於千手前、更被送遣、其上以祐經、邊鄙士女還可有其興歟、御在國之程、可被召置之由被仰云々、更に據ば、此宴席に用し物なるべし)(新編相模国風土記稿より)


教恩寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿