妙法寺。鎌倉市大町にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

楞嚴山妙法寺。松葉ヶ谷御小庵地、京都本國寺旧地、護良親王の皇子日叡開山

妙法寺の概要

日蓮宗寺院の妙法寺は、楞嚴山と号します。妙法寺は、布教のために建長5年(1253)安房から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に小庵(松葉ヶ谷御小庵)を結び、他宗僧に小庵を焼き討ちされた地とされています。当初法華堂と称し、その後大光山本國寺と改め創建、文永11年に身延山へ退隠するまで日蓮聖人当地を本拠として活動していました。足利尊氏直義等の叔父にあたる日靜の代、嘉暦3年(1328)に後醍醐天皇の勅願寺とされ、貞和元年(1345)本國寺は京都六條堀川へ移転、日靜の弟子日叡(護良親王の皇子楞厳丸)は宗祖小庵の古蹟を惜しみ、延文2年(1357)楞厳山妙法寺と称して開山しました。江戸期には十一代将軍徳川家斉公や徳川御三家、肥後細川家などの帰依を受けた著名寺院です。

妙法寺
妙法寺の概要
山号 楞嚴山
院号 -
寺号 妙法寺
本尊 一塔良尊四師
住所 鎌倉市大町4-7-4
宗派 日蓮宗
縁日 -
葬儀・墓地 -
備考 -



妙法寺の縁起

妙法寺は、布教のために建長5年(1253)安房から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に小庵(松葉ヶ谷御小庵)を結び、他宗僧に小庵を焼き討ちされた地とされています。当初法華堂と称し、その後大光山本國寺と改め延文2年(1357)に創建、文永11年に身延山へ退隠するまで日蓮聖人当地を本拠として活動していました。足利尊氏直義等の叔父にあたる日靜の代、嘉暦3年(1328)に後醍醐天皇の勅願寺とされ、貞和元年(1345)本國寺は京都六條堀川へ移転、日靜の弟子日叡(護良親王の皇子楞厳丸)は宗祖小庵の古蹟を惜しみ、延文2年(1357)楞厳山妙法寺と称して開山しました。江戸期には十一代将軍徳川家斉公や徳川御三家、肥後細川家などの帰依を受けた著名寺院です。

鎌倉市掲示による妙法寺の縁起

ここは、布教のため安房(千葉県南部)から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に草庵、いわゆる松葉ヶ谷御小庵を結んだと伝えられている地です。辻説法などで他宗を批難したため草庵が焼き討ちされた「松葉ヶ谷の法難」の場所もこのあたりであるとの伝承があります。
のちに護良親王の皇子である楞厳丸(日叡)が、悲壮な最期を遂げた父母の供養と日蓮聖人の遺跡を守るためにこの寺を建て、山号を楞厳山としました。本堂は、細川家の寄進による見事な欅造りです。
護良親王の墓がある山頂からは、市街地と海を見渡せます。(鎌倉市掲示より)

妙法寺栞による妙法寺の縁起

縁起
当山は建長五年(一二五三)、日蓮聖人が鎌倉松葉谷を布教の拠点と定め、小庵を結ばれた地に建立された霊跡寺院である。
中興開山とされる第五世の日叡上人は、後醍醐天皇の御子息大塔宮護良親王の子である。延文二年(一三五七)、日蓮聖人を慕ってこの地に堂塔伽藍を復興され、自らの幼名である楞嚴丸に因んで楞嚴山妙法寺と称し、山頂に両親の墓を建てて弔った。
永正年間には第十一世日澄上人が『日蓮聖人註画讃』『法華経啓運抄』などを著し、学僧として名を上げた。
江戸時代には徳川光圀公が創建した水戸三昧堂檀林出身の第三十二世日応上人、第三十三世日慈上人が寺門の興隆に努め、十一代将軍家斉公はじめ将軍家や徳川御三家、肥後細川家などの武家及び市民の帰依を受け、日本最初の川施餓鬼を隅田川の永代橋で行った。
当山の総門、仁王門、法華堂が朱塗りえあるのは将軍家斉公を迎えるためであったとされており、明治中期までは境内に将軍御成の間が置かれていた(妙法寺栞より)

新編相模国風土記稿による妙法寺の縁起

(大町村)妙法寺
松葉谷の北方にあり、楞嚴山蓮華院と號す、日蓮宗(京六條本國寺末)寺傳に建長五年宗祖始て此地に小菴を結び、後年豆州伊東に謫せられ赦免の後又爰に移り、總て在住十九年の舊蹟にて當宗最初の精舎と云ふ(注釈)
其後大光山本國寺と號し、文永八年始祖佐州に配流の後一旦廢せしが、同十一年赦免の後又再建あり(注釈)
同年五月宗祖當寺より甲州身延山に退隠す(【廣布録】曰、文永十一年五月十二日、祖師五十三歳而、退於鎌倉松葉谷本國寺、隠居甲州身延山)
弘安五年十月附弟日朗に宗法悉附屬す(注釈)
因て朗を二祖とす、筑後房大國阿闍梨と號せり(元應二年正月廿一日寂す)後三世日印(魔訶一年と號す、嘉暦三年十二月廿日寂す)譲與ありしは元應元年十月なり(本國寺蔵譲状曰、譲與日印所右大聖人御譲状、日朗法門悉附屬日印、依譲状知件、元應元年己未十月十三日日朗華押)其以前日印宗對論二度に及べり(注釈)
夫より四世日靜譲を受く(同寺蔵譲状曰、大聖人御譲状、立像釋迦佛、御自筆安國論、任付弟相之旨、悉所附属日靜云々、)
靜は足利尊氏直義等の叔父なり(注釈)
徳行俊秀の由叡聞に達し、嘉暦三年十一月後醍醐帝勅願寺の綸旨を賜ふ(注釈)
貞和元年三月詔に據て當寺諸堂塔頭等、悉京都六條堀川に移る(注釈)
因て日靜の弟子、日叡發願にて當所は宗祖小庵の古蹟にて法華堂本國寺の舊地たるが故、延文二年當寺を再興せり、故に叡を五世中興と唱ふ(應永四年十一月九日、六十四歳にて寂す、叡は大塔宮護良親王遺子にて、楞嚴親王妙法房と稱すと云ふ)師日靜此丹誠を感悦して叡が幼名楞嚴丸と云ひ、妙法房と稱するをもて即寺山號に銘じ、京都本國寺の末に屬せしむ(注釈)
應安四年迄寺務職ありしと云ふ、本堂に三寶以下宗法の諸尊を安ず(今本堂は破壊して、再建に及ばず、客殿も又破壊して、今假殿を設け、已上の本尊を安ず、)
門に法華堂の三字額を扁し、宗門梵字之發軫高祖小庵之舊地と傍記す、
△釋迦堂。本尊釋迦(立像長三尺六寸、運慶作)脇に中興日叡の像を安ず(長一尺八寸餘大明坊作と云ふ、按ずるに、三浦郡金谷村、大明寺の傳に、同寺六世、中興を大明房日榮と云ふ、此人の作なるべし、榮は京本國寺四世、日靜の弟子にて、應永h知念十一月十六日寂す、)
△祖師堂。日蓮像(座像長二尺八寸、中興日叡作、或説に、延文二年、日叡當寺再興の時、一夏九旬間、法華經を讀誦す、解々夜明星出る時、高祖此地に於て、巨難に値し體相を、夢の如く感拝し、即其尊容を擬し、自ら彫刻す、依て霊夢開運の祖師と號す)脇に四天及び日朗・日印の像を安ず、
△焼香場
△奥之院小庵。日蓮の像を安置す(座像長一尺一寸、日印作、)是宗祖居住の舊蹤と云ふ(安國寺の傳にも、同寺の北、山中に小菴の舊跡ありと云ふ、合考すべし、)
△妙安妙意靈社。此靈神詳ならず、又元禄元年清正の靈を合祀すと云ふ、
△位牌堂。破壊して未再建に及ばず、
△供所
△鷲宮三十番神合社。抑鷲宮は、往昔由井長者太郎太夫明忠(又時忠と傳る所、郡中所々にあり、)其女兒を鷲の爲にとられ、憤怒に堪へず鷲を悉く退治す、其後鷲祟を成すを以て茲に祀る、是鎌倉三宮の内なりしと傳ふ、三十番神は永正年中京本國寺十二世日了の勸請なりと云ふ、鷲宮分と號せし所、先規より法華堂屋地たる事長勝寺蔵文書に初見あり
(曰、相州鎌倉名越谷松葉谷法華堂屋地事、□□依頼鷲宮分候、先規猶永代可爲法華堂本國寺屋地之者也、依爲以後□状如件、延徳五年丑四月廿日、正行院、政朝華押、按ずるに、政朝は結城氏なるべし、又宛所正行院の號詳ならず、長勝寺・妙法兩寺何れの別號なるにや、又長勝寺にも本國寺舊跡の傳あれば、其地詳ならず、)
△護良親王社。山上にあり、是中興日叡の父宮なるを以其頃祀りしと云ふ、
△蛇松一株。社邊にあり(廻一丈五尺餘、高四丈二尺餘、亘り十丈九尺餘に及ぶ、)寺傳に往昔宗祖小菴に居住の際毎朝此山上に登り、此松の本にて日天子を拝し、天下泰平國家安全教流布を祈誓し、又房州に向て父母の重恩を拝謝ありと云ふ(【註畫讃】に、毎日入名越山中、高聲唱法華首題、と有は此所にや、全文安國寺條に引用す、合考すべし、)後年樵夫此山に入て既に伐らんとす、時に此松聲を發せり怪みて樹上を望めば大蛇現はれて怒れる色あり、樵夫驚怖して迯去り、遂に伐り得ず、是より俚俗此名を唱ふと云ふ、
△山門。破壊して未再建に及ばず、
△四足門
△仁王門
△鐘樓。寶永六年鑄造の鐘を掛く、序文に寺傳の大略を載す、
△化生岩屋。南方にあり(口徑二間一尺五寸、深三間二尺)寺傳に建長五年日蓮房州より来たり、此所に數日居住す、其頃迄は妖怪多かりしが宗祖讀經説法し厚く教化ありしかば其怪異止しと云ふ、日蓮の石像を安ぜり、土人或は化粧屋鋪とも云ふ、別に故あるにや詳ならず、
△塔頭。
重善院(永徳二年、當山中興日叡開基す)
圓蔵院(應永十六年、京本國寺七世、日嚴開基す)
顯應坊(明應九年、太田左衛門大夫持資起立、本國寺十二世、日了、開基と云ふ、按ずるに、持資入道は、文明十八年七月既に死せり、夫より十四年の後なれば、持資起立と云は、其誤論ずべからず、但し其氏族を誤り傳ふるにや、)
常縁坊(開基詳ならず)
蓮乗坊(當山二十三世、日誘開基と云ふ、年代詳ならず、)(新編相模国風土記稿より)


妙法寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿