随我山来迎寺。三浦義明の菩提を弔うため源頼朝が創建
来迎寺の概要
時宗寺院の来迎寺は、随我山と号します。来迎寺は、源頼朝が、三浦大介義明の霊を弔う為に真言宗能蔵寺と号して建久5年(1194)に創建したといいます。三浦大介義明は、源頼朝が平家打倒の旗上げに際して加勢したものの、石橋山の敗戦に際して、義澄らの一族を頼朝方へ逃して自身は居城衣笠城で自刃したといいます。本尊阿弥陀如来は三浦義明の守護仏と伝えられます。鎌倉三十三観音霊場第14番です。
山号 | 随我山 |
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院号 | - |
寺号 | 来迎寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 鎌倉市材木座2-9-19 |
宗派 | 時宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
来迎寺の縁起
来迎寺は、源頼朝が、三浦大介義明の霊を弔う為に真言宗能蔵寺と号して建久5年(1194)に創建したといいます。三浦大介義明は、源頼朝が平家打倒の旗上げに際して加勢したものの、石橋山の敗戦に際して、義澄らの一族を頼朝方へ逃して自身は居城衣笠城で自刃したといいます。本尊阿弥陀如来は三浦義明の守護仏と伝えられます。
境内掲示による来迎寺の縁起
時宗来迎寺縁起
時宗来迎寺の開基は、建久五年(一一九四年)源頼朝が己の鎌倉幕府の基礎となった三浦大介義明の霊を弔う為、真言宗能蔵寺を建立したときに始まる。(能蔵寺の名は、この付近の地名として使われていた)尚、開山上人は明らかでない。
おそらく頼朝が亡くなった後、現在の「時宗」に改宗したと思われるが改宗年代は不詳である。山院寺号を随我山来迎寺と号し、音阿上人(当時過去帳記載)が入山以降法燈を継承している。能蔵寺から起算すると実に八百余年の歴史がある。
時宗の総本山は神奈川県藤沢市西富、藤沢山清浄光寺、通称遊行寺と呼ばれている。開祖は一遍上人、今から七百年余り前文久十一年(一二七四年)熊野権現澄誠殿に参籠、熊野権現から夢想の口伝を感得し、『信不信浄不浄を選ばず、その札を配るべし』の口伝を拠り處に、神勅の札を携え西は薩摩から東は奥羽に至るまえ、日本全国津々浦々へ、念仏賦算の旅を続けられること凡そ十六年。その間寺に住されることなく亡くなるまで遊行聖に徹した。教法の要旨は『今日の行生座臥擧足下足平生の上を即ち臨終とこれを心得称名念仏する宗門の肝要となすなり』とある『念仏によって心の苦しみや悩みは、南無阿弥陀仏の力で救ってくださる』という教えである。
当寺の本尊阿弥陀如来(弥陀三尊)は三浦義明の守護佛と伝えられる。平成十一年十月十二日から平成十一年十一月二十三日まえ皇太子殿下ご成婚記念として東京国立博物館に新しく建設され平成祈念館の開館を記念し、特別展「金と銀 輝きの日本美術」が開催され当寺の御本尊も展覧され拝観者の皆様から着衣の素晴らしい戴金文様と、高い評価を得ることがえきた。また、鎌倉三十三観音札所十四番で子育て観音をおまつりしてある。この観音様に念ずれば、必ず智恵福徳円満な子供を授かるとして、昔から多くの信者に信仰されている。以前、当寺の山頂(本堂裏側の山頂)にこの観音堂があったが昭和十一年、国の指令により「敵機の目標になるから」という理由で、取り壊された。鎌倉旧市街および海が一望でき、長谷観音と相対していた。
当山は明治五年十二月二十一日夜、材木座発火の類焼に遭い寺寶はことごとく消失してしまった。『相模風土記』によると「宗祖一遍上人像、三浦義明の像有り」とあるが現存しない。なお、来迎寺明細帳によると、明治十六年五月、当寺よん十一代、野本廓善和尚が単独で本堂兼庫裡を建立したとの記録がある。この建物は昭和十二年まであったが、諸般の事情で改築した。これより先に当山四十五代照雄和尚の徳により三浦義明の像並びにこれを安置する御堂を建立、正和三十五年五月、義明七百八十年忌にあたり一族と共に供養した。(この義明像は三浦一族に由縁のある彫刻家鈴木国策氏の献身的な奉仕によって見事制作されたものである)しかし、この御堂も諸般の事情により取り壊した。将来境内整備が終わりしだい再建する予定である。境内には義明公および多々良三郎重春公の五輪塔(高さ二米)一説には義明公夫婦ともいわれている。また応永、正長年銘などの寶篋印塔(数基鎌倉国宝館に貸し出し展示中)ありこの数七百余基を数える。『相模風土記』によれば、「三浦義明の墓は五輪塔なり、ここに義明の墳墓あるはその縁故知らざれど、思うに冥福を修せんがために寺僧が造立せしならん」とある。義明は庄司義継の長男で平家の出で、平家の横暴腐敗した政治を正すため、源氏に仕え、時の世人挙げて平家に従ったが、ただ一人敢然として頼朝に尽力した。
治承四年(一一八〇年)頼朝の召に応じて子義澄を遣わしたが、石橋山の敗戦で帰郷の途次、畠山重忠の軍を破った為、重忠らに三浦の居城衣笠城を包囲された。防守の望みを失ったので、義澄らの一族を脱出させて頼朝のもとに赴かせひとり城に留まって善戦したが、ついに陥落して悲壮な最期を遂げ、源氏のために忠を尽くした。一方石橋山の戦いで平家に敗れた頼朝は、海路安房に渡って再挙を図り、関東各地の源氏家人の加勢を得、義澄と共に鎌倉に拠って策源地と定めた。後、征夷大将軍となり鎌倉幕府を創建したのである。この国家大業の成就の陰には義明の先見の叡智と偉大な人徳によるところだいである。義明あって鎌倉幕府の成否は義明によって決したと断ずるも過言でない。後に頼朝が義明あるいは一族に対する報謝の意が実に数々の温情の行業に伺われる。義明が後に「三浦大介百六ツ」と呼ばれる由来は頼朝が衣笠の満昌寺において、義明の十七回忌法要を供養したとき、義明がまだ存命して加護していてくれるのだ、という心からの事で自刃したときの八拾九歳と十七年を加えた数と思われる。
私たちは、このような幾多の先祖の偉業、遺徳を懇ろに偲び、人生の心の糧として、何時までもこの行跡をたたえ続けて行きたいものである。(境内掲示より)
新編相模国風土記稿による来迎寺の縁起
(亂橋村)来迎寺
随我山と號す、時宗(藤澤清浄光寺末、)開山一向(建治元年寂すと云ふ、)本尊三尊彌陀を安ず(中尊、長二尺左右各長一尺五寸、共に運慶作、)三浦大介義明の守護佛と云ふ、宗祖一遍の像あり、又三浦義明の木像を置く、
△三浦義明墓。五輪塔なり、義明は庄司義繼が長子なり、治承四年八月衣笠に於て自盡す、今三浦郡大矢部村(衣笠庄に屬す)即義明自盡の所と傳ふ、建久年中義明が追福の爲賴朝其地に一寺を創立して満昌寺と號せり、其域内に義明が廟あり尚彼寺の條に詳なり、此に義明の墳墓ある其縁故を知らざれど思ふに冥福を修せんが爲寺僧の造立せしならん、(新編相模国風土記稿より)
来迎寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿