法雲寺。加々美才兵衛正光開基、昭和15年再興
法雲寺の概要
曹洞宗寺院の法雲寺は、高石山と号します。法雲寺は、加々美才兵衛正光(寛永6年1629年歿)が開基、譽心(天正16年1588年寂)が開山となり臨済宗寺院として創建、寳音寺と号していたともいいます。明治以降いったん廃寺となったものの、昭和15年曹洞宗寺院として再興したといいます。
山号 | 高石山 |
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院号 | - |
寺号 | 法雲寺 |
住所 | 川崎市麻生区高石2-6-1 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
法雲寺の縁起
法雲寺は、加々美才兵衛正光(寛永6年1629年歿)が開基、譽心(天正16年1588年寂)が開山となり臨済宗寺院として創建、寳音寺と号していたともいいます。また新編武蔵風土記稿には、行福寺殿道巌行尊禅定門(関東管領上杉安房守憲基か)の位牌(応永26年1419年銘)があったといいます。明治以降いったん廃寺となったものの、昭和15年曹洞宗寺院として再興したといいます。
新編武蔵風土記稿による法雲寺の縁起
(高石村)法雲寺
字本村谷にあり、臨済宗菅村壽福寺末、天正の水帳に寳音寺といへるは當寺のことなりと云、されどいつの頃寺號を改めしと云ことを傳へず、高石山と號す、開山譽心は天正十六年正月十二日寂す、開基は加々美才兵衛正光なり、寛永六年二月二日歿す、客殿五間に三間半南向なり、本尊彌陀は別に三間四方南向の堂を作りて安ず、この彌陀は長三尺餘の坐像にて行基の作なりと云傳ふ、脇立地蔵勢至長各二尺餘、行基この彌陀を彫刻のとき、諸の腫物の患を平癒せしめんとの誓願により、霊験著しくして土人の崇仰大方ならず、縁日は年々二月十五日なり、當寺の本堂の中に古き位牌あり、面に行福寺殿道巌行尊禅定門靈位と題し、背に應永二十六年七月四日と彫る、これは管領山内の上杉安房守憲基の位牌なりと云、按に上杉系圖に安房守憲基は、應永二十五年正月四日二十七歳にして卒せり、異本には二十七年正月四日三十四歳にして卒す、法名宗徳院殿海印心元とあり、當寺の位牌にしるす所も亦よる所あるにや、或は他人の法諡なるや疑ふべし、又立身の彌陀を雕りたる古碑を本尊の左に安じて、香火を供す、年號等もなく其謂れを知らず(新編武蔵風土記稿より)
「川崎市史」による法雲寺の縁起
現在曹洞宗の法雲寺も寿福寺末で臨済宗であったが、明治以降さびれ、廃寺になったものを、村人の力により昭和十五年(一九四〇)曹洞宗寺院として再興した。(川崎市史より)
法雲寺所蔵の文化財
- 木造阿弥陀如来坐像(川崎市重要歴史記念物)
木造阿弥陀如来坐像
当寺は曹洞宗に属し、平安時代末期に作られた「木造阿弥陀如来坐像」が所蔵されています。
その姿は衲衣をまとい右手を曲げ掌を正面に向け、左手は膝上で掌を上に向けて、いずれも第一指と第二指を捻じます。これは、上品下生の来迎印と称され、阿弥陀如来に特徴的な印相です。また、椀を伏せたような肉髻・整然と刻まれた小粒の螺髪・丸顔で穏和な表情や柔らかな衣文などは、明らかに藤原時代(八九四年〜一一八〇年)に流行した「定朝様」と呼ばれる作風の特色が見られます。
定朝様とは、平安時代を代表する仏師定朝が大成した優美な作風で、その典型的な形は定朝唯一の遺作である京都の宇治平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像(天喜元年・一〇五三)に見ることができます。十一世紀に京都を中心に広がったこの様式は、地方でも流行し東国では十二世紀になってから展開を見せ、多くの仏・菩薩像に影響を与えました。本像は市内に残る平安仏の中でも最もよく都風をしのばせるものとして、昭和六十(一九八五)年十二月二十四日、川崎市重要歴史記念物に指定されました。(川崎市教育委員会掲示より)
法雲寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿