壽福寺。多摩川三十三ヶ所観音霊場、準西国稲毛三十三観世音霊場
壽福寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の壽福寺は、仙谷山と号します。壽福寺の創建年代等は不詳ながら、かつては天台宗寺院だったといいます。法慶(弘安元年1278年寂)が臨済宗寺院に改めて開山、江戸時代には寺領7石の御朱印状を受領、近隣に多くの末寺を擁していた本寺格の寺院だといいます。多摩川三十三ヶ所観音霊場初番、準西国稲毛三十三観世音霊場4番です。
山号 | 仙谷山 |
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院号 | - |
寺号 | 壽福寺 |
住所 | 川崎市多摩区菅仙谷1-14-1 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
壽福寺の縁起
壽福寺の創建年代等は不詳ながら、かつては天台宗寺院だったといいます。法慶(弘安元年1278年寂)が臨済宗寺院に改めて開山、江戸時代には寺領7石の御朱印状を受領、近隣に多くの末寺を擁していた本寺格の寺院だといいます。
新編武蔵風土記稿による壽福寺の縁起
(菅村)壽福寺
村の西字仙谷にあり、或は仙谷郷とも云、故に當寺を仙谷山と號す、臨済宗相州鎌倉建長寺の末、寺領七石の御朱印を賜る、境内は則御朱印地の内なり、今所蔵御朱印の内舊者は慶安元年九月十七日なり、其文に先規の寄附に任すと云々、古縁起あり、左に載す。
夫仙谷山壽福寺者、推古天皇六戊午年、聖徳皇太子就于高橋丸之亡妃、入阿彌尼公終焉之地、剏建七區練若、以資冥福之舊趾也、蓋山曰仙谷者、有仙人道鏡者、遅于此山、錬行修身積有年矣・・・應永十四年丁亥稔六月十八日 沙門宗圓敬記焉
この宗圓はその頃の住なりと云、この縁起に載する所頗る詳にして當時の事を證すべきもの多し。然るに今寺傳によれば、開山法慶は弘安元年九月七日寂せりと云、是縁起に云方慶が氏満と交りし永禄年より百五年前に當れば、寺傳の誤れるにや。又寺傳に法慶より先は天台宗なりしと云り、古き寺院なること知るべし。
門。兩柱の間一丈兩控作なり、大門の前の坂を土人庚申坂と呼ぶ、路傍に庚申塚ある故なり。
客殿。九間に六間半南向なり、本尊虚空蔵坐像にして長八寸作知らず。
寺寶。
大般若経六百巻。唐櫃に納む、高倉院の御宇治承三年の頃より書寫し始て、其後世々書きつぎしが猶關ありしを板本を以て補へり、夫も永和年中梓行の本なり、其筆者の名を記せしは道成、年代を知らず、明豪、治承の頃、修理法眼兼賢、永仁の頃、源實定、治承の頃、清尊、弘長の頃、僧観覺、年代を知らず、運壽倫、至徳の頃、行信、年代を知らず、朝運慶運榮仙、三人共に應永の頃、祖意深大寺長辨、二人ともに年代を考へず、源實柱、建久の頃、澄融、建武の頃阿闍梨巌海等なり、中にも源義経及び武蔵坊辨慶の書あり、第五百八十九巻の末に記して云、九郎判官義経辨慶讀合了とあり、この餘建久の頃の寫に筆者の名磨滅して讀がたきものあり、餘は多く板本なり、後人の補書、これは元禄の頃和泉神宗嘴、貞享の頃小出玄蕃頭重興等が名を載せたり。
十六羅漢畫一幅。雪舟の書なりと云。
鞍一口、鐙一隻。何も古物なり。
観音堂。客殿の前にあり、三間四方にして東向なり、大會堂と號す、かの縁起に載る所にして古名なり、本尊は雉子を踏へし立像にて、尋常観音の像と異なり長一尺餘、古武蔵坊辨慶此堂にて大般若経を書寫せしと云傳へり。
阿彌陀堂。観音堂の巽の方にあり、これも三間四方にて北向なり、本尊は五尺許の坐像なり。
太神宮八幡稲荷大黒合社。表門の向にあり、此内八幡稲荷大黒三坐は縁起に載る處なればまさしく古社なるべし。
辨天社。観音堂の後にあり、小社なり、此辨天も縁起に載る所ならん。
神明社。堂より南の方の山上にあり小社。
第六天社。これは西の山上にあり小社。
境内十景。大會堂、擁護廟、展翼峰、採薬阜、晩成室、光照崖、攫霧松、吐玉泉、餐霞谷、指月橋。
東湖庵。門前にあり、當寺の隠居所なり。(新編武蔵風土記稿より)
壽福寺所蔵の文化財
- 木造国一禅師坐像(川崎市重要歴史記念物)
木造国一禅師坐像
当寺は、臨済宗建長寺派の寺院で、創建年代は明らかではありません。
当寺所蔵の木造国一禅師坐像は、曲隶と呼ばれる椅子に坐り、手に払子を持ち、寄木造、玉眼入で、室町時代後期に制作された頂相彫刻です。
また、この像に納入されている二枚の胎内銘札と首枘の墨書銘により、この像が国一禅師の像で、国一禅師が鎌倉時代末期の元享元年(一三二一)に亡くなられたことがわかります。
川崎市教育委員会は、この像を昭和四十九年二月十九日、川崎市重要歴史記念物に指定しました。(川崎市教育委員会掲示より)
壽福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿