教安寺。川崎市川崎区にある浄土宗寺院
教安寺の概要
浄土宗寺院の教安寺は、一乗山究竟院と号します。教安寺の創建年代等は不詳ながら教安が開山となり創建したといいます。
山号 | 一乗山 |
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院号 | 究竟院 |
寺号 | 教安寺 |
住所 | 川崎市川崎区小川町6-2 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
教安寺の縁起
教安寺の創建年代等は不詳ながら教安が開山となり創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による教安寺の縁起
(川崎宿小土呂町)教安寺
西側にて往還より三十二間程奥の方にあり。一乗山究竟院と号す。浄土宗江戸芝増上寺の末寺なり。開山僧教安寂年詳ならず現住までの世数十七代に及ぶと云ときは、開闢の年歴も推て知るべし。本堂七間に六間半東南に向へり。本尊は三尊の弥陀木の坐像なり。長三尺許、脇士は長二尺ばかりにて立像なり。
鐘楼。一間四方鐘の径一尺五寸、第三世の僧在住の頃天正十八年七月四日鋳しよしを刻するのみにて銘文はなし。
天神稲荷合社。門を入て左にあり、小社なり。
地蔵堂。同並びにあり。
観音堂。是も同並びにあり僅なる堂なり。(新編武蔵風土記稿より)
教安寺所蔵の文化財
- 六字名号碑
六字名号碑
江戸時代後期、幕藩体制の童謡にともなう社会不安の増大や、農村における貧富差の拡大などは、人々の将来に対する危機感をつのらせた。そのような状況下に富士山に弥勒の浄土を求めた新興の庶民信仰である「富士講」は、関東一円で爆発的な流行をみた。さらに当時「生き仏」と崇められた浄土宗の高僧、徳本上人は、全国各地を遍歴して念仏を勧め、浄土往生を願う農民たちにやすらぎを与え、彼の赴くところ、おのずから一つの信仰集団が生まれ、「六字名号碑」の建立が行われた。
教安寺に残る燈籠は、富士講の有力な先達であった堀の内出身の西川満翁が組織した「タテカワ講」によって建立されたものであり、境内の六字名号碑は同じく宿民によって建立されたものである。(川崎市掲示より)
教安寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿