本遠寺。下菅生村の横山七右衛門、上菅生村の石巻三之助等の助力
本遠寺の概要
日蓮宗寺院の本遠寺は、初香山と号します。本遠寺は、僧日受が永禄2年(1559)に創建、天正10年(1582)に下菅生村の横山七右衛門、上菅生村の石巻三之助等の助力を得て日安上人の代に堂宇を造立、天正19年(1591)徳川家康より境内地の年貢免除を受けたといいます。横山家は、戦国時代には小田原北條家に仕えていた式部少輔の子孫で、下菅生村の旧家だそうです。
山号 | 初香山 |
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院号 | - |
寺号 | 本遠寺 |
住所 | 川崎市宮前区初山1-2-1 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
本遠寺の縁起
本遠寺は、僧日受が永禄2年(1559)に創建、天正10年(1582)に下菅生村の横山七右衛門、上菅生村の石巻三之助等の助力を得て日安上人の代に堂宇を造立、天正19年(1591)徳川家康より境内地の年貢免除を受けたといいます。横山家は、戦国時代には小田原北條家に仕えていた式部少輔の子孫で、下菅生村の旧家だそうです。
新編武蔵風土記稿による本遠寺の縁起
(下菅生村)本遠寺
字初山にあり、日蓮宗荏原郡池上本門寺末なり、初芳山と號す當寺起立の事實を尋るに、永禄二年に僧日受造立す、此人六年の間住職し、同七年三月朔日寂せし後は八年の間継續の僧もなかりしが、元亀元年に至りて身延山第十六世日新の弟子日立と云人入院せり、この後天正十年九月日安住職の時當村の人横山七右衛門、上菅生村の人石巻三之助等、かの僧に歸依し、力を合せて堂宇を造立せり、御入國の後天正十九年境内の地を免除せらる、その地は三十五間に二十八間ありしとぞ、日安の弟子日慶、慶長十八年十一月入院の後、境内のせはきを嘆き、地をそへたまはらんことを七度に及ぶまで願ひあげしかば、松平伊豆守信綱これをとりつきてやうやくみゆるしをうけ、七十七間に三十七間の添地を賜はりしもの今の境内なり、客殿五間半に六間巽向なり、本尊三寳祖師作しれす。
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舊家者百姓三左衛門
横山を氏とす、先祖を式部少輔と稱す小田原北條家に仕へしものなり、村内本遠寺の堂を再興せし下菅生村の農民横山七左衛門もまた式部少輔を祖とすと云、是等一家より出しものにや詳ならず、今に至るまで十三代に及ぶといへとも、その間のことただ本遠寺過去帳に姓名をしるすのみにて別に傳へもなし、今子孫別家せるもの村内に五軒あり、 (新編武蔵風土記稿より)
本遠寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿